墓場まで持っていけない話

墓場まで持っていけない話

黒崎源治の軽自動車は、車というより、物置に近かった。

軽のバンである。白だったはずだが、今は白とも灰色ともつかない色をしている。洗車など、車検の前ぐらいしかしない。前のバンパーには細かい擦り傷があり、左のドアには、どこかの駐車場でぶつけられたへこみが残っていた。

運転席の足元には、コンビニのレシート、丸まった軍手、古い駐車券、百円ライター、爪楊枝の袋、いつ買ったのかわからない飴玉が落ちている。助手席には新聞紙と作業用のジャンパーが積んであり、人を乗せる時は、それを後ろへ放り投げる。

後ろの荷台はもっとひどい。

錆びた工具箱。空のペットボトル。折りたたみ傘。いつか使うつもりの養生テープ。片方だけの軍手。スーパーの袋に入ったままの古いタオル。

そして、菓子の空き缶が一つあった。

その缶の中には、線香が入っている。

立派な線香ではない。スーパーの仏花売り場の脇に置いてある、安い線香である。箱の角は潰れ、湿気を吸ったせいで少し反っている。百円ライターが二つ入っているが、一つはつかない。蝋燭もある。夏に一度溶けて、箱の中で変な形に固まった。

それでも源治は、それを捨てなかった。

墓へ行くには、それで足りた。

源治は七十になった。

七十といっても、きちんとした七十ではない。町内会で役をやっているわけでもない。孫を連れて歩いているわけでもない。朝から畑をいじるような健康な老人でもない。

駅から歩けば二十五分はかかる古いアパートの二階に住んでいる。六畳と四畳半、流しと風呂。階段は外階段で、雨の日は滑る。源治はその階段を、右足をかばいながら一段ずつ上る。

右足は、若い頃の事故で悪くした。

もう四十年以上前のことだ。

その夜、源治は森田の車の助手席に乗っていた。

森田は、源治より二つ年上だった。よく笑う男だった。何がそんなにおかしいのかというくらい、いつも笑っていた。金はなかったが、なぜか人に好かれた。源治より少し真面目で、源治より少しだけ運が悪かった。

その頃、源治は加藤自動車で働いていた。

働いていたといっても、たいした仕事ではない。洗車、名義変更の書類取り、車庫証明の提出、客のところへ車を届ける、陸運局へ行く。そういう雑用だった。

加藤社長は小太りの男で、冬でも白いジャンパーを着ていた。声が大きく、怒ると唾が飛んだ。けれど、妙に面倒見がよかった。

源治は、その加藤社長に何度も飯を食わせてもらった。

給料日前になると、源治は必ず金がなかった。給料が安いせいもあったが、それだけではない。入った金をすぐ使った。パチンコ、酒、女、競輪。たまに集金した金を「一晩だけ」と思って使った。翌日なんとか戻せばいい、そう思うのだが、戻せないことの方が多かった。

ある晩、社長に呼ばれた。

店の近くの定食屋だった。赤い暖簾が出ていて、カウンターの端にいつもスポーツ新聞が置いてある店だ。

社長はカツ丼を二つ頼んだ。

「源、お前、昼飯食ってねえだろ」

「食いましたよ」

「嘘つけ。顔見りゃわかるんだよ」

源治は黙っていた。

カツ丼が来ると、社長は自分の割り箸を割りながら言った。

「お前な、頭が悪いわけじゃねえんだよ」

「そうですかね」

「悪くねえよ。だけどケツが軽すぎる。ちょっと金が入れば浮かれる。女が呼べば飛んでく。酒飲めば偉くなった気になる。そういうところが駄目なんだよ」

源治は、へへっと笑った。

「社長、説教長いっすよ」

「長くなるようなことばっかり、お前がやってんだよ」

その夜のカツ丼の味を、源治は今でも覚えている。

だが、次の日にはまた遅刻した。

源治とはそういう男だった。

森田の車でラーメンを食いに行った夜も、べつに大した用事があったわけではない。

夜中の十一時を少し回っていた。源治は森田と安い居酒屋にいた。酒は飲んでいなかった。森田は車だったし、源治もその日は金がなく、ウーロン茶で焼き鳥を二本つまんだだけだった。

「腹減ったな」

森田が言った。

「食ったじゃねえか」

「あんなもん食ったうちに入んねえよ。国道沿いのラーメン屋、まだやってるだろ」

「遠いぞ」

「どうせ暇だろ」

暇だった。

源治の人生は、たいてい暇だった。忙しいふりだけはしていたが、本当に大事な用事などほとんどなかった。

二人は森田の車に乗った。

古いセダンだった。森田は運転席で煙草をくわえ、火をつけずに唇で転がしていた。

「源、お前さ、いつまで加藤自動車にいるんだ」

「知らねえよ」

「社長、お前のこと、けっこう買ってるぞ」

「買ってるなら給料上げろってんだよ」

森田は笑った。

「そういうところだよ、お前」

国道へ出ると、車は少し速度を上げた。

道は空いていた。街灯が途切れると、フロントガラスの向こうが急に暗くなった。対向車のライトだけが、遠くから白く伸びてきた。

事故は、一瞬だった。

対向車のライトが強く光った。森田が「まぶしいな」と言った。次の瞬間、車が少し左へ寄った。たぶん森田は、ほんの少しハンドルを切っただけだった。

左のタイヤが縁石に乗った。

がん、という音がした。

車体が跳ねた。森田が「あっ」と言った。源治は助手席のドアに肩をぶつけた。車は縁石を乗り越え、斜めに飛ぶようにして歩道へ上がった。

そこに、電柱があった。

音は、今でもうまく思い出せない。

金属が潰れる音。ガラスが割れる音。森田の声。自分の声。

全部が一つになって、耳の奥で止まっている。

源治が次に目を開けた時、車の中は白い煙のようなもので満ちていた。焦げた匂いがした。どこかで誰かが叫んでいた。

森田は、ハンドルに覆いかぶさるようになっていた。

「森田」

源治は呼んだ。

返事はなかった。

自分の右足は、助手席と潰れたコンソールの間に挟まっていた。動かそうとすると、膝から下が自分のものではないように痛んだ。足首のあたりが妙な方向を向いているのが見えた。

源治はそこで、初めて本気で叫んだ。

森田は死んだ。

源治は助かった。

助かったというのは、命だけの話である。

右足は元に戻らなかった。長く歩くと痛む。階段では膝が抜けるようになる。寒い日は骨の奥から疼く。医者は「日常生活はできます」と言った。

日常生活はできる。

それは、何でもできるという意味ではなかった。

退院して最初に、源治は加藤自動車の近くまで行った。

行くつもりはなかった。ただ、バスを降りて、杖代わりにしていた古い傘を突きながら歩いているうちに、足が勝手にそっちへ向いた。

店の前には、相変わらず車が斜めに並んでいた。洗車したばかりの白いワゴン車が、冬の陽を受けて光っている。事務所のガラスには、手書きの紙が貼ってあった。

車検安くやります。現金買取。ローン相談可。

源治は道路の向こう側で立ち止まった。

右足が痛んでいた。病院のリハビリでは、少しずつ歩けるようになると言われた。たしかに歩ける。歩けるが、前と同じではない。膝の奥に、針金でも入っているような痛みがある。足首は自分の言うことを半分しか聞かない。

店の奥から、社長の声が聞こえた。

「おい、そこ拭き残しあんぞ。客はそういうとこ見るんだよ」

変わっていなかった。

源治は笑いそうになった。笑いそうになって、それから森田の顔が浮かんだ。

あの夜、森田はハンドルに覆いかぶさるようにしていた。煙。割れたガラス。焦げた匂い。ハンドルの向こうで動かない森田の肩。

源治は、道路を渡れなかった。

事務所の引き戸が開いた。

社長が出てきた。白いジャンパーの腹が、前より少し大きく見えた。社長は源治に気づいた。気づいて、一瞬だけ顔を止めた。

それから大きな声を出した。

「源!」

源治は、反射的に顔をそむけた。

社長が道路の向こうから手を上げた。

「おい、何やってんだ。こっち来いよ」

源治は傘を握り直した。

足が動かなかった。いや、動かないのは足ではなかった。胸の奥の方が、ぎゅっと固まっていた。

源治は小さく頭を下げた。それだけして、背中を向けた。

「おい、源!」

社長の声が追ってきた。

源治は振り返らなかった。

森田の葬式の日も、源治は足を引きずって行った。

黒い靴はなかった。昔買った革靴を出したが、右足が腫れて入らなかった。仕方なく、黒に近い運動靴を履いた。線香の匂いと、畳の匂いと、薄い味の茶の匂いがした。

森田の写真は、笑っていた。

いつもの森田だった。何がそんなにおかしいのかという顔で笑っていた。

焼香を済ませて顔を上げた時、森田の母親がそこにいた。

小さな人だった。葬式の黒い服が、体より大きく見えた。目の下がくぼみ、唇は乾いていた。

母親は源治を見た。

何も言わなかった。

責めなかった。泣き崩れなかった。罵らなかった。許すとも言わなかった。

ただ一度、源治の顔を見た。

その目には、答えがなかった。お前のせいだ、と言っているようにも見えた。お前も苦しいんだろう、と言っているようにも見えた。何も考えていないようにも見えた。

だから、余計に忘れられなかった。

源治はそのあと、少しずつ崩れた。

朝起きられなくなった。右足が痛いと言って、仕事の面接を一つ断った。断ると、次を探す気力がなくなった。昼間から安い酒を飲むようになった。病院でもらった痛み止めを飲み、酒を飲み、それで眠った。

女も離れた。

スナックで働いていた女だった。名前を美代子といった。源治の足を見ても、最初は何も言わなかった。退院してしばらくは、弁当を持ってきてくれた。煮物の味が少し甘かった。

「源ちゃん、ちゃんと食べなきゃだめだよ」

「ああ」

「社長さんのところ、行ってみれば」

「うるせえな」

「心配してくれてるんでしょ」

「だから、うるせえって言ってんだろ」

言った瞬間、美代子の顔から何かが消えた。

怒ったわけではない。泣いたわけでもない。ただ、少し離れた顔になった。

その日から、美代子の来る回数は減った。

一週間に三回が、一回になり、月に一回になり、やがて来なくなった。

源治は追わなかった。

追えるほどの男ではなかった。

事故から二年ほどして、源治は小さな工場に入った。

駅の裏手、線路沿いにある古い工場で、主に金属の小さな部品を作っていた。油の匂いと鉄粉の匂いがいつも混ざっていた。夏は蒸し暑く、冬は足元から冷えた。機械の音が一日中鳴っていて、人の声はいつも少し怒鳴り声になる。

源治の仕事は、できあがった部品を箱に並べることだった。

重いものは持てない。長く立ってもいられない。足が痛むと、椅子に座って作業する。

工場の連中は、最初こそ源治の足を見たが、すぐに見なくなった。

人の足より、自分の今日の残業の方が大事だった。

それが、源治には少し楽だった。

加藤社長がその工場へ来たのは、源治が働き始めて半年ほどたった頃だった。

昼休みだった。源治は工場の裏で、冷めた弁当を食べていた。白飯の上に、安い鮭の切り身が乗っている。味噌汁はなかった。右足を伸ばして、壁にもたれていた。

そこへ、白いジャンパーの社長が現れた。

「おう」

源治は箸を止めた。

「社長」

「こんなところにいたのか」

「まあ」

「まあ、じゃねえよ。電話しても出ねえ。店の前まで来て逃げる。人づてに聞いたら、ここで働いてるって言うじゃねえか」

源治は弁当箱のふたを見ていた。

「すいません」

「すいませんで済むなら、俺はここまで来ねえよ」

社長は、隣にどかっと座った。工場の裏のコンクリートに、白いジャンパーは似合わなかった。

「足はどうなんだ」

「痛いです」

「痛いのは足だけか」

源治は黙った。

社長はしばらく源治を見ていた。怒っている目だった。だが、見捨てた目ではなかった。

「森田のことな」

社長が言った。

源治は箸を置いた。

「お前が運転してたわけじゃねえ。それはそうだ。だけどな、そういうことで片がつくなら、人間は楽なんだよ」

工場の中で、プレス機の音がした。がしゃん、がしゃんと、同じ音が続いていた。

「お前は、森田と一緒に死に損なったんだ。だからって、自分で自分を腐らせていいってことにはならねえ」

源治は何も言わなかった。

言い返したかった。そんなことわかってる、と言いたかった。わかってるからこうなってるんだ、と言いたかった。

だが、それを言うと、もっとみっともなくなる気がした。

社長は立ち上がると、持ってきた紙袋を源治の横に置いた。

「食え」

「なんですか」

「カツ丼だ」

源治は顔を上げた。

「またですか」

「嫌なら捨てろ」

「捨てませんよ」

「だろうな」

社長は帰り際、振り向かずに言った。

「源、お前はケツが軽い。だけど、まだ終わってねえ。終わったふりすんな」

源治は紙袋を見ていた。

カツ丼はまだ温かかった。

それから何十年も経った。

源治は金持ちにはならなかった。結婚もしなかった。結婚しようと思った女は一人いた。小さなスナックで働いていた女だった。よく笑う女で、源治の足を見ても変な顔をしなかった。

一度だけ、二人でアパートを見に行ったことがある。

だが源治には金がなかった。覚悟もなかった。女はしばらく待ったが、最後は別の男と一緒になった。

源治はその女を恨んでいない。

恨めるような立場ではなかった。

七十近くになると、昔の知り合いの死んだ話が、ぽつぽつ耳に入るようになった。

飲み屋で聞く。板金屋で聞く。病院の待合室で聞く。昔の仲間の電話で聞く。

ある者は肝臓をやられて死んだ。

中村という男だった。若い頃から酒が強いのが自慢で、焼酎を水みたいに飲んだ。五十を過ぎても、まだ「俺は医者に行かねえ」と言っていた。六十を前に腹が膨れ、顔が黄色くなった。最後は病院のベッドで、見舞いに来た仲間に「一口でいいからビール持ってこい」と言ったらしい。

ある者は喧嘩で刺された。

新井という男だった。若い頃から口が悪く、負ける喧嘩も買う男だった。六十五にもなって、飲み屋で隣の客と揉めた。相手も若くはなかった。どちらも引かなかった。店の外で押し合いになり、相手が持っていた小さなナイフが新井の腹に入った。救急車が来た時には、もう意識がなかったという。

ある者は自分で首を吊った。

理由はよくわからない。金だという者もいた。女だという者もいた。病気だったという者もいた。結局、死んだ人間の理由など、生き残った人間が勝手に並べるだけである。

源治は、そのたびに思った。

あいつの墓はどこだ。

死んだと聞いても、すぐに墓がわかるわけではない。

家族ならわかる。親戚ならわかる。だが源治は家族でも親戚でもない。ただ昔、同じ時間を少しだけ通っただけの男である。

それでも源治は、墓の場所を探した。

理由を聞かれると困る。

供養というほど立派なものではない。許してほしいわけでもない。死者に対して善人ぶりたいわけでもない。源治は、そんなにできた人間ではない。

ただ、生きている時に縁のあった人間が、どこかに眠っている。場所がわかれば、近くを通った時に線香をあげる。

それが、源治の作法になっていた。

加藤社長が死んだと聞いたのは、源治が六十八の時だった。

聞いた場所は、駅前の安い居酒屋だった。

カウンターはベタついていた。壁には、色の褪せた短冊メニューが斜めに貼られている。もつ煮、ハムカツ、冷奴、焼酎水割り。テレビでは野球ではなく、古い歌番組が流れていた。

隣にいたのは、板金屋の田辺だった。

田辺は若い頃から板金一筋で、爪の間にはいつも塗料が残っている。七十を越えてもまだ工場に出ていたが、最近は息が切れると言っていた。

「医者がよ、血糖が高いだの、肝臓の数値がどうのってうるせえんだよ」

田辺は焼酎をすすりながら言った。

「医者は数字が好きだからな」

「数字見せられても、こっちはわかんねえよ。俺は板金屋だぞ。へこんだら叩く。錆びたら削る。それだけだ」

「人間も叩いて直ればいいんだけどな」

「お前は叩いたら壊れるだろ」

二人は笑った。

老人の酒は、病気の自慢から始まる。血糖、血圧、肝臓、前立腺、膝、腰、目。どこが悪いかを話しながら、酒を飲む。矛盾しているが、老人とはそういうものだった。

田辺が、ふと思い出したように言った。

「そういや、加藤社長、去年死んだぞ」

源治は、箸でつまんでいたハムカツを落とした。

「誰が」

「誰がって、加藤自動車の社長だよ。白いジャンパーの」

「ああ……」

「知らなかったのか」

「知らねえよ。誰も教えねえもん」

田辺は鼻で笑った。

「そりゃそうだろ。お前、誰ともちゃんと付き合ってねえじゃねえか」

源治は黙った。

その通りだった。

昔の町に住んでいても、昔の人間とつながっているとは限らない。同じ駅を使い、同じ国道を走り、同じスーパーで買い物をしていても、人間の歩いている道は違う。見る景色も違う。誰かの訃報は、家族や親しい者の間ではすぐ回る。だが源治のところまでは、風の最後の方みたいに遅れて届く。

翌日、源治は田辺の板金工場へ行った。

用事は一つだった。

「加藤社長の墓、どこだか知ってるか」

田辺は作業場の奥から出てきた。鼻の頭に白い粉がついていた。シンナーの匂いと、削った鉄の匂いが混ざっている。

「墓? 知らねえよ」

「じゃあ、誰なら知ってる」

「なんだよ、急に」

「線香ぐらいあげたいんだよ」

田辺は源治の顔を見た。

茶化そうとして、やめたようだった。

「奥さんはもういねえしな。息子も店たたんでどっか行ったって話だし……ああ、吉村さんなら知ってるかもしれねえ」

「吉村さん?」

「事務所にいたろ。眼鏡かけた女の人」

「ああ、あの人か」

「女の人って、お前、もう婆さんだぞ。八十近いんじゃねえか」

田辺は電話番号までは知らなかったが、家の場所をなんとなく覚えていた。

「消防署の裏の細い道を入って、古い米屋の角を曲がったあたりだよ。表札出てるかどうかは知らねえ」

源治はその足で行った。

消防署の裏の道は、一方通行だらけだった。軽自動車でも狭い。カーナビは何度も変な道を指した。古い米屋は、もう米屋ではなく、シャッターの閉まった空き店舗になっていた。

やっと見つけた家は、瓦屋根の古い平屋だった。庭の植木は伸び放題で、郵便受けの横に小さな表札が出ていた。

吉村。

源治は呼び鈴を押した。

返事はない。

もう一度押した。まだない。

三度目で、奥から細い声がした。

「どちらさま」

戸が少しだけ開いた。チェーンがかかっていた。

源治は帽子を取った。

「昔、自動車屋で世話になった黒崎です。源治です。覚えてらっしゃいますか」

隙間から、白髪の老婆の目が見えた。

「源ちゃん?」

「はい」

「あんた、生きてたの」

源治は笑った。

「なんとか」

チェーンが外れた。

「まあ、入りなさいよ。足、まだ悪いんでしょ」

吉村は、源治の足を覚えていた。

六畳間に通されると、畳の匂いがした。仏壇の横に、昔の写真が飾ってあった。若い頃の吉村らしい女が、事務所の前で笑っていた。その隣に、白いジャンパーの加藤社長も写っていた。

「源ちゃん、あれから何やってたのよ」

「まあ、いろいろです」

「いろいろって、どうせろくなことじゃないんでしょ」

「だいたい当たりです」

吉村は笑った。

薄い茶を出してくれた。湯呑みの縁が少し欠けていた。

「あんた、よく社長に怒られてたわね」

「はい」

「でも社長、あんたのこと切らなかった」

「なんでですかね」

「知らないわよ。馬鹿な子ほど何とかってやつじゃないの」

源治は茶をすすった。味はほとんどしなかった。

「森田さんの事故のあともね、社長、森田さんの家に行ったのよ」

源治の手が止まった。

「社長が?」

「そうよ。葬式のあと。あんたが店に戻らなくなってからだったと思う。社長、何か自分にも責任があるような顔してね。香典とは別に、改めて頭下げに行ったの」

源治は何も言えなかった。

「帰ってきてから、しばらく事務所で黙ってたわ。普段うるさい人だったけど、あの日は本当に黙ってた」

吉村は仏壇の方を見た。

源治は、その話を初めて聞いた。

自分が道路の向こうから加藤自動車を眺めて、結局背中を向けたころ、社長は森田の家に行っていたのかもしれない。あの母親の前に立っていたのかもしれない。

何を言ったのかはわからない。何も言えなかったのかもしれない。

源治は、急に畳の目を数えたくなった。

「墓はね、たぶん東泉寺よ」

吉村が言った。

「奥さんの実家の墓がそこだったから。社長もそこに入ったはず」

「東泉寺」

「でも、ちゃんと寺で聞きなさいよ。勝手に墓地をうろうろしてたら、今どき怪しまれるから」

源治はうなずいた。

翌日、源治は東泉寺へ向かった。

ところが、最初に着いた寺は違っていた。

カーナビに「とうせんじ」と入れたら、似た名前の寺がいくつか出た。近い方を選んだ。着いてみると、山門の字が違う。

「東の泉じゃねえじゃねえか」

源治は車の中で毒づいた。

二つ目の寺も違った。細い坂道を上がった先にあり、駐車場が見当たらない。仕方なくバックで戻った。右足がつりそうになり、途中でブレーキを踏み損ねて、後ろの石垣にぶつけそうになった。

「坊主も墓も、なんでこうわかりづれえんだ」

三つ目で、ようやく東泉寺に着いた。

駐車場は狭かった。源治は何度も切り返して車を入れた。砂利の上に降りると、右足がずしりと重くなった。寺の空気は、町の空気と少し違っていた。線香と湿った土と、古い木の匂いが混ざっている。

源治は後ろの荷台を開けた。

菓子の缶を取り出す。蓋を開けて、中を確かめる。線香、蝋燭、百円ライター。

一つ目のライターは、相変わらず怪しかった。

「まあ、どうにかなるだろ」

源治は缶を小脇に抱え、本堂の横の寺務所へ向かった。

呼び鈴を押すと、若い坊主が出てきた。

三十代か四十前か。きれいな作務衣を着ている。源治の古い軽自動車、汚れた靴、よれたジャンパー、それから小脇に抱えた菓子の缶を順番に見た。

「はい」

声に、少しだけ壁があった。

「すいません。昔、世話になった方の墓参りに来まして」

「どちらの檀家さんですか」

「檀家じゃありません。昔、加藤自動車で世話になった者です」

「ご親戚ではないんですね」

「はい。ただ、飯を食わせてもらった者です」

若い坊主の顔に、困ったような、面倒なような色が浮かんだ。墓地を歩かせていい相手かどうか、測っている顔だった。

その時、奥から年配の坊主が出てきた。

「どうしました」

若い坊主が説明する前に、源治は言った。

「加藤自動車の加藤社長の墓を探してまして」

年配の坊主の顔が、すぐに変わった。

「ああ、加藤自動車の社長さん」

「はい。昔、少し世話になりまして」

「あの方には、うちもずいぶんお世話になりました。境内の修繕の時も、車のことでも、何かと力を貸していただいて」

若い坊主の声が、少し柔らかくなった。

源治はそれを見ていた。

寺でも、やはり人は人を見る。汚い軽自動車で来た足の悪い老人か。金を納めた社長の知り合いか。たったそれだけで、声の温度が変わる。

年配の坊主は、墓の場所を丁寧に教えてくれた。

「墓地の真ん中の通路をまっすぐ行って、大きな松があります。その手前を右です。三つ目の列の奥から二番目です。墓石の横に社長さんのお名前もありますから、わかると思います」

「ありがとうございます」

「どうぞ、ゆっくりお参りください」

ゆっくりと言われても、源治は最初からゆっくりしか歩けなかった。

墓地の中は、思ったより広かった。真ん中の通路がどれなのか、まずわからない。大きな松は一本ではなかった。同じ名字の墓もあった。右に曲がる場所を間違え、知らない家の墓の前で行き止まりになった。

源治は菓子の缶を抱えたまま、何度も戻った。

膝が痛んだ。腰が痛んだ。額に汗がにじんだ。

「まったく、死んだあとまで手間かけさせやがって」

小さく悪態をついた。

ようやく見つけた墓は、思っていたより小さかった。

墓石の横に、加藤社長の名前があった。源治はその字をしばらく見た。

白いジャンパー。カツ丼。怒鳴り声。工場の裏で置いていった紙袋。あの日、自分が食べた温かい飯。

順番も何もなく、ばらばらに戻ってきた。

源治は墓の前にしゃがみ、菓子の缶を開けた。

線香を出す。蝋燭を出す。百円ライターを押す。

一つ目は、やはりつかなかった。

「役に立たねえな、お前は」

源治はライターに向かって言った。

二つ目で、ようやく火がついた。

線香の先が赤くなり、煙が細く上がった。

源治は手を合わせた。

「社長」

声に出すと、胸の奥が少し詰まった。

「あの時のカツ丼、まだ返してません」

そう言って、源治は黙った。

金を返す相手は、もういない。謝る相手も、もういない。言い訳を聞いてくれる相手も、もういない。

だから線香をあげる。

源治の墓参りは、だいたいそういうものだった。

片桐正男から電話があったのは、加藤社長の墓参りから五日ほど経った夕方だった。

源治はアパートの流しで、鍋に残った昨夜の味噌汁を温めていた。具はほとんど残っていない。大根の切れ端と、沈んだ油揚げが二枚。味噌汁というより、味のついた湯に近かった。

テレビはつけていた。

夕方のニュースで、知らない町の火事を映していた。黒い煙が上がっていて、アナウンサーが何か言っている。源治は聞いていなかった。ただ音がしていれば、それでよかった。アパートの部屋は、音がないと急に狭くなる。

携帯が鳴った。

知らない番号だった。

源治は火を弱め、画面をしばらく見ていた。

近頃、知らない番号からの電話など、ろくなものではない。保険、電気料金、屋根の修理、不要品の買い取り。あとは、昔の名簿をどこかで拾ったような怪しい勧誘である。

源治は出なかった。

携帯はしばらく震えていたが、やがて静かになった。

「用があるなら、またかけてくるだろ」

源治はそう言って、鍋の中を箸でかき回した。

味噌汁は煮詰まっていた。少し水を足す。味が薄くなる。薄くなるが、それでいい。源治の飯は、だいたいそんなものだった。

また携帯が鳴った。

同じ番号だった。

源治は少し舌打ちをした。二度続けてかけてくるということは、少なくとも屋根の修理ではないかもしれない。

「はい」

源治は、わざと低い声で出た。

少し間があった。

「……黒崎か」

男の声だった。

かすれていた。電話の向こうで、一度小さく咳をした。

「誰だ」

「俺だよ。片桐だ」

源治は、すぐには返事をしなかった。

片桐。片桐正男。

名前を聞いてから、顔が浮かぶまでに少し時間がかかった。若い頃の顔が先に出てきた。細い目。尖った顎。前歯の一本が少し欠けていた。競輪場の帰りに、いつも負けたくせに「今日は惜しかった」と言う男だった。

今の顔は、うまく思い出せなかった。

「片桐って、あの片桐か」

「他にどの片桐がいるんだよ」

電話の向こうで、片桐は笑った。笑ったが、途中で咳に変わった。

乾いた咳だった。長く続く咳だった。

源治は鍋の火を止めた。

「お前、声おかしいな」

「ああ。まあな」

「風邪か」

「風邪ならよかったんだけどな」

片桐はそう言って、少し黙った。

テレビの中では、火事の映像が終わり、どこかの政治家が頭を下げていた。源治はリモコンを取って、音を消した。

部屋が急に静かになった。

「どうしたんだよ」

源治が聞いた。

「いや、たいした用じゃねえんだ」

「たいした用じゃねえなら、二回もかけてくんなよ」

「相変わらず口悪いな」

「お前も相変わらず回りくどいな」

片桐はまた笑った。今度は咳き込まなかった。

「黒崎。俺さ、今、病院なんだよ」

「病院?」

「ああ」

「どこの」

「市立の方じゃねえ。東総病院」

東総病院。町の外れにある大きな病院だった。源治も何度か行ったことがある。整形外科で右足を診てもらったこともあるし、田辺の見舞いに行ったこともある。駐車場がやたら広く、入口まで歩くのが面倒な病院だった。

「入院してんのか」

「ああ。もう一ヶ月になるかな」

「一ヶ月?」

源治は眉を寄せた。

「なんで俺が知らねえんだよ」

「お前に知らせる筋合いもねえだろ」

「それもそうだな」

源治は流し台にもたれた。

片桐とは、もう何年も会っていなかった。

最後に会ったのは、たしかスーパーの駐車場だった。五年ぐらい前かもしれない。いや、もっと前かもしれない。互いに腹が出て、髪が薄くなっていて、最初はどちらも相手に気づかなかった。

「おう」

「おう」

それだけで始まる会話がある。

あの時もそうだった。駐車場の白線の上で、十分ほど立ち話をした。誰が死んだ、誰が離婚した、あの店は潰れた、駅前は変わった。そんな話だけして、「そのうち飲もう」と言って別れた。

そのうちは、来なかった。

老人の「そのうち」は、たいてい来ない。

「で、何の病気だ」

源治が聞いた。

「まあ、いろいろだ」

「いろいろって何だよ」

「医者は難しい名前つけたがるからな。俺にはよくわかんねえ」

「本人がわかってねえってことあるかよ」

「わかったところで、治るわけじゃねえしな」

片桐の声は、妙に軽かった。軽くしているのだと、源治にはわかった。

こういう時、人は変に明るくなる。明るくしていないと、自分の声を聞いているだけで沈んでしまうからだ。

「悪いのか」

源治は短く聞いた。

電話の向こうで、しばらく音がしなかった。

遠くで、看護師らしい女の声がした。何かの機械が、小さく電子音を鳴らしていた。

「まあ、先は見えてきたな」

片桐が言った。

源治は黙った。

それは、ずるい言い方だった。

はっきり余命がどうとか言うわけではない。だが、聞いた方に全部わからせる言い方だった。

「医者に言われたのか」

「医者ははっきり言わねえよ。家族には言ってんのかもしれねえけどな」

「家族いるだろ」

「いるよ。いるけど、まあ、いるだけだ」

「なんだそりゃ」

「お前だって、家族ってもんが何でもしてくれるわけじゃねえのは知ってるだろ」

源治は何も言わなかった。

家族という言葉は、人によって重さが違う。軽い人間もいる。重すぎて持てない人間もいる。片桐の家のことを、源治は詳しく知らなかった。若い頃に一度、女房が気が強いとか、息子がどこかへ出ていったとか、そんな話を聞いた気もするが、はっきり覚えていない。

「それで、俺に何の用だ」

源治は言った。

「今さら見舞いに来いってか」

「まあ、そういうことだ」

片桐はあっさり言った。

源治は少し笑った。

「お前、昔から図々しいな」

「年取ると、もっと図々しくなるんだよ」

「俺はならねえよ」

「なってるだろ」

二人とも少し黙った。

源治は、冷めかけた味噌汁の鍋を見た。湯気がもう細くなっていた。

「なんで俺なんだよ」

源治は聞いた。

「他にいるだろ。もっと仲良かったやつが」

「いるにはいるよ」

「じゃあ、そいつら呼べよ」

「呼んでる」

「なんだよ、それ」

「会えるやつには、会っとこうと思ってな」

片桐の声が、そこで少しだけ変わった。

「俺もさ、もう先が見えちゃってるだろ。だから、昔のやつらと、会えるうちに会っとこうと思ってるんだよ。黒崎さん、あんたんとこにもちょっと声かけさせてもらった」

黒崎さん。

片桐がそう呼んだことに、源治は少し引っかかった。

昔は「源」だった。もっとふざけている時は「源公」だった。負けた競輪の帰りには「源ちゃん、金貸してくれ」だった。

黒崎さん、などと呼ばれた覚えはない。

病院にいる人間は、急に丁寧になる。死に近づいた人間も、時々そうなる。

それが源治には、少し嫌だった。

「気持ち悪い呼び方すんなよ」

「何が」

「黒崎さんって何だよ」

片桐は小さく笑った。

「じゃあ、源」

「それでいい」

「源、顔見せてくれねえか」

源治は黙った。

流しの蛇口から、水が一滴落ちた。ぽた、と音がした。

見舞いに行く義理があるのか。ない。

親友だったか。違う。

五年も十年も会っていなかった。電話番号だって、向こうがどこで調べたのかわからない。

今さら何だ。

死にそうになると、人間は昔の顔が恋しくなるのか。それとも、死ぬ前に自分の人生の名簿でもめくっているのか。

源治はそう思った。

思ったが、口には出さなかった。

先が見えてきた、と本人が言った。

それを聞いたあとで、知らねえよとは言いにくい。

死んだ人間の墓を探してまで線香をあげる男が、まだ生きている人間から「顔を見せてくれ」と言われて、それを無視するのも、どこか筋が悪かった。

「いつだ」

源治は言った。

「いつでもいい」

「いつでもいいが一番困るんだよ」

「じゃあ、明日」

「明日かよ」

「明日じゃまずいか」

「まずくはねえけど」

源治は頭の中で予定を探した。予定らしい予定はなかった。午前中に整形外科でもらった湿布を取りに行こうと思っていたが、明日でなくてもいい。洗濯も溜まっているが、どうせ誰に見せるわけでもない。

「何時だ」

「午後なら起きてる」

「寝てんのか」

「病人だからな」

「偉そうに言うな」

「午後二時ぐらいなら、たぶん大丈夫だ」

「面会できんのか」

「今はできるらしい。入口で名前書いて、病棟上がってこいって」

「病室は」

「六階。六〇三」

源治はその数字を繰り返した。

「六階、六〇三」

「忘れんなよ」

「忘れるかもしれねえから、あとでメールか何かで送れ」

「メールなんか打てねえよ」

「じゃあ看護師に打ってもらえ」

「お前、病院を何だと思ってんだ」

「便利屋」

片桐は笑った。今度は少し長く笑った。そしてまた咳き込んだ。

咳が長引いた。

源治は、電話を耳に当てたまま、黙って待った。

やがて、片桐が息を整えて言った。

「悪いな」

「謝るほどのことじゃねえよ」

「いや、悪い」

「何が」

「まあ、いろいろだ」

またそれか、と源治は思った。

片桐は電話の向こうで、まだ何かを隠している。そんな気がした。

だが、その時の源治には、それが何なのかまではわからなかった。

「じゃあ、明日行くよ」

「本当か」

「嘘ついてどうすんだよ」

「いや、源は来ねえかと思った」

「だったら呼ぶな」

「呼びたかったんだよ」

片桐の声が、少しだけ低くなった。

「源には、会っときたかった」

源治は返事をしなかった。

そういう言い方は嫌いだった。死ぬ前の人間は、時々、相手の逃げ道をふさぐ言い方をする。

会っときたかった。

そう言われたら、こちらはもう行くしかない。

「じゃあな」

源治は言った。

「ああ。明日な」

電話が切れた。

源治はしばらく、携帯を持ったまま立っていた。

味噌汁は、もう完全に冷めていた。テレビの画面では、音のないニュースが流れていた。誰かが口を動かしている。だが、何を言っているのかはわからない。

源治は鍋をもう一度火にかけた。

火をつけた瞬間、鍋の底で味噌が焦げかけている匂いがした。

「面倒くせえな」

源治は小さく言った。

だが、その声に本気の怒りはなかった。

翌日、源治はいつもより早く目が覚めた。

目が覚めたといっても、気持ちよく起きたわけではない。夜中に二度、右足がつった。明け方には、夢の中で森田の車に乗っていた。ハンドルを握っていたのは森田ではなく、なぜか片桐だった。

目を開けると、天井の染みが見えた。

アパートの天井には、昔から小さな雨染みがある。何度か大家に言おうと思ったが、面倒でやめた。雨が漏るわけではない。染みがあるだけだ。源治の人生には、そういうものが多かった。

漏れてはいない。ただ、染みが残っている。

源治は布団の中で、しばらく右足をさすった。

病院に行くのは好きではない。

病院は、待つ場所である。

呼ばれるのを待つ。検査の結果を待つ。会計を待つ。薬を待つ。そして人によっては、死ぬのを待つ。

源治は、そういう場所が苦手だった。

昼前、源治は軽自動車に乗った。

荷台には、いつもの菓子の缶があった。病院へ行くのに線香はいらない。いらないが、源治はそれを降ろさなかった。車から降ろす理由もなかった。

エンジンをかけると、最初だけ少し咳き込むような音がした。

「お前も病院行くか」

源治は車に向かって言った。

車は答えなかった。

東総病院までは、混んでいなければ三十分ほどだった。国道をしばらく走り、古いパチンコ屋の角を曲がる。昔は畑だった場所に、ドラッグストアと葬儀場ができていた。

葬儀場の看板には、家族葬、直葬、事前相談と書いてあった。

源治はその看板を横目で見た。

昔は、葬式といえば近所の人間が集まった。誰かが台所に入り、誰かが受付をやり、誰かが酔っぱらって怒鳴った。面倒だったが、人の死が町の中にあった。

今は、死ぬのも小さくなった。

家族だけ。知らせない。香典辞退。会食なし。

楽になったのかもしれない。だが、死んだことまで、風の最後の方みたいに遅れて届くようになった。

加藤社長のこともそうだった。

源治は信号で止まり、ハンドルの上に指を置いた。右足の膝が、じんと痛んでいた。

病院の駐車場は広かった。

広いのに、入口に近いところは全部埋まっていた。源治は何度か回り、結局かなり奥の方に車を停めた。

「病人に歩かせる病院ってのは、何考えてんだ」

文句を言いながら、源治は車を降りた。

杖は持たなかった。杖を持つほどではない、と自分では思っている。実際には、持った方が楽なのかもしれない。だが、持つと自分が本当に老人になったようで嫌だった。

入口まで歩く途中、救急車が一台、音を消して入ってきた。

サイレンは鳴っていない。それでも、救急車は救急車だった。

源治は少し足を止めた。後ろの扉が開き、白い服の救急隊員が動いた。誰かが運ばれている。顔は見えなかった。

病院の自動ドアが開いた。

中は、外より少し冷えていた。消毒液の匂いがした。正面に受付があり、その横に面会の案内が貼ってあった。

源治は案内を読むのが面倒で、受付の女に聞いた。

「六階の六〇三に面会なんだけど」

「お名前をこちらにお願いします」

女は慣れた声で言った。

源治は紙に名前を書いた。

黒崎源治。

自分の名前を書くたびに、少し字が下手になっている気がした。昔からうまくはなかったが、最近は手が思うように動かない。

「患者様のお名前は」

「片桐正男」

「ご関係は」

源治は少し迷った。

親族ではない。友人と言うほど、近かったかどうかもわからない。知人。昔の知人。腐れ縁。町で会えば「おう」と言う相手。

受付の女は、ペンを持ったまま待っている。

「昔の知り合い」

源治は言った。

女は少しだけ困った顔をして、それでも紙に何かを書いた。

「面会時間は三十分程度でお願いします」

「はいはい」

「病棟で再度確認がありますので」

「はい」

源治は首から下げる面会証を渡された。

エレベーターの前には、老人が何人も待っていた。車椅子の女。杖をついた男。花の包みを持った中年の女。誰も大きな声では話さない。病院の中では、人の声も少し薄くなる。

六階で降りると、廊下は明るかった。

窓の外に町が見えた。源治の住んでいる町だった。だが、上から見ると知らない町のようだった。国道も、スーパーも、パチンコ屋も、葬儀場も、小さな箱みたいに見える。

ナースステーションで名前を言うと、若い看護師が確認してくれた。

「片桐さん、今お話できますよ。ただ、お疲れになりやすいので、短めにお願いします」

「はい」

「こちらです」

看護師に案内されて、源治は廊下を歩いた。

病室の前で、源治は一度立ち止まった。

六〇三。

ドアは少し開いていた。

中から、機械の小さな音が聞こえた。テレビの音はしなかった。

「片桐さん、面会の方です」

看護師が声をかけた。

源治は、ゆっくり中へ入った。

片桐は、窓側のベッドにいた。

最初、源治はそれが片桐だとすぐにはわからなかった。

顔が小さくなっていた。頬がこけ、顎の骨が目立っていた。髪は白く薄くなり、病衣の襟元から見える首は、若い頃の片桐とは別の生き物のように細かった。

それでも、目だけは片桐だった。

細い目。人を少し斜めから見る目。負けたくせに、まだ何か言い訳を考えているような目。

「来たか」

片桐が言った。

声は電話より弱かった。

「来たよ」

源治は椅子を引いた。椅子の脚が床にこすれて、小さな音を立てた。

「老けたな」

片桐が言った。

「鏡見てから言え」

「俺は病人だからいいんだよ」

「便利だな、病人ってのは」

片桐は笑った。笑うと、頬の骨が余計に浮いた。

源治はベッドの脇に座った。

窓の外には、病院の駐車場が見えた。源治の軽自動車は、たぶんあの奥の方にある。小さすぎて、どれだかわからなかった。

「よく来たな」

片桐が言った。

「呼んだのはお前だろ」

「そうだけどよ」

「で、何だ」

「せっかちだな」

「病院は長居するところじゃねえ」

「俺は長居してるけどな」

源治は返事に困った。

片桐は、窓の方を見た。

「変わったな、町」

「変わったよ」

「競輪場の裏の雀荘、まだあるか」

「ねえよ。駐車場になった」

「あそこの親父、まだ生きてんのかな」

「知らねえ」

「駅前の焼き鳥屋は」

「あれもねえ。チェーンの薬屋になった」

「なんでも薬屋だな」

「年寄りが増えたからな」

片桐は小さくうなずいた。

「俺たちも、その年寄りだ」

「俺はまだそこまでじゃねえ」

「七十だろ」

「七十でも、いろいろあるんだよ」

「悪あがきだな」

「お前に言われたくねえ」

二人は、しばらく昔の話をした。

誰が死んだ。誰がどこへ行った。誰の店が潰れた。誰の息子が捕まった。誰の女房が逃げた。

明るい話は少なかった。

それでも、片桐は楽しそうだった。楽しそうに見せているだけかもしれなかった。

話している途中で、何度か息が切れた。そのたびに片桐は、ベッドの横の水を少し飲んだ。手が震えていた。

源治はそれを見ないふりをした。

病人の弱っているところをじろじろ見るのは、礼儀が悪い。だが、見ないふりをしても、見えてしまうものは見える。

「源」

片桐が言った。

「何だ」

「加藤社長の墓、行ったんだってな」

源治は片桐を見た。

「誰に聞いた」

「田辺」

「あの野郎、口軽いな」

「昔からだろ」

「まあな」

源治は少し肩をすくめた。

「行ったよ」

「お前、そういうところあるよな」

「どういうところだよ」

「死んだやつの墓、探してまで行くところ」

「暇なんだよ」

「暇だけじゃ、行かねえよ」

源治は黙った。

片桐は、細い指で布団の端をつまんでいた。

「俺さ、加藤社長のこと、そんなに知らねえけどよ」

「ああ」

「でも、あの人、お前のこと気にしてたよな」

「知らねえよ」

「知らねえってことにしてるだけだろ」

源治は返事をしなかった。

窓の外で、駐車場を歩く人影が見えた。小さな子供の手を引いた女が、ゆっくり車の間を歩いている。

「源」

片桐の声が、少し低くなった。

「何だよ」

「今日呼んだのはな、昔話したかったからだけじゃねえんだ」

源治は、胸の中で小さく何かが動くのを感じた。

やっぱりな。

そう思った。

電話の時から、片桐は何かを隠していた。見舞いに来い、昔のやつらに会いたい、それだけなら、声の奥にあんな硬いものは混じらない。

「何だよ」

源治は言った。

「金か」

片桐は目を細めた。

「死にかけの病人に、それ言うか」

「お前なら言いかねねえだろ」

「まあ、若い頃ならな」

「若くなくても言いかねねえ」

片桐は少し笑った。

だが、すぐに笑いは消えた。

「金じゃねえ」

「じゃあ何だ」

片桐はすぐには答えなかった。

病室の外を、看護師の靴音が通り過ぎた。隣のベッドのカーテンの向こうで、誰かが寝返りを打った。

源治は、片桐の顔を見ていた。

片桐は、窓の外ではなく、自分の手元を見ていた。その手は、布団の上で小さく握られていた。

「墓場まで持っていくつもりだったんだけどな」

片桐が言った。

源治は何も言わなかった。

「どうも、持っていけそうにねえんだ」

病室の空気が、少し変わった。

源治は、椅子に座ったまま、背中を少しだけ伸ばした。

「やめとけ」

源治は言った。

片桐が顔を上げた。

「まだ何も言ってねえだろ」

「だからだよ」

源治は片桐を見た。

「そういう話は、聞かねえ方がいいって決まってんだ」

片桐は黙った。

「言う方は楽になるかもしれねえけどな。聞かされた方は、その話持って帰るんだよ」

源治の声は、自分でも思ったより低かった。

「俺は坊主じゃねえ。神主でもねえ。懺悔聞く係でもねえんだよ」

片桐は、しばらく源治を見ていた。

そして、小さく言った。

「それでも、お前に聞いてほしかった」

源治は舌打ちをした。

「ずるいこと言うな」

「わかってる」

「わかってて言うな」

「わかってても、言わなきゃならねえことがあるんだよ」

片桐の声は、もう軽くなかった。

病室の白い壁。薄いカーテン。窓の外の駐車場。機械の小さな電子音。

全部が、急に遠くなった。

源治は、加藤社長の墓前で上がっていた線香の煙を思い出した。煙は細く、風に流れていた。

墓へ行くには、それで足りた。だが、生きている人間の口から出る話には、線香一本では足りないことがある。

源治は椅子の背にもたれた。

「聞くだけだぞ」

片桐はうなずいた。

「聞くだけだ。俺に何かしろって言うなよ」

「わかってる」

「わかってねえ顔してるけどな」

片桐は、少しだけ笑った。

その笑いは、若い頃の片桐に少し似ていた。

「源」

「何だ」

「昔、橋から落ちて死んだやつ、覚えてるか」

源治の眉が動いた。

忘れていた名前が、胸の奥でゆっくり起き上がる気配がした。

片桐は続けた。

「事故ってことになったやつだよ」

源治は、すぐには答えなかった。

病室の窓の外で、夕方の光が少し傾いていた。

片桐の声が、さらに低くなった。

「あれな、事故じゃねえんだ」

源治は、片桐の顔を見た。

片桐は、もう笑っていなかった。

源治は、しばらく片桐の顔を見ていた。

片桐は、目をそらさなかった。

病室の窓の外で、夕方の光が少しずつ白くなっていた。駐車場を歩く人影が、遠くで小さく動いている。どこかの病室から、咳をする音が聞こえた。

源治は低く言った。

「誰の話だ」

片桐はすぐに答えなかった。

喉の奥で何かを飲み込むようにして、それから小さく息を吐いた。

「杉浦だよ」

源治は眉を寄せた。

「杉浦……」

「杉浦明」

その名前を聞いた瞬間、源治の胸の奥で、古い引き出しが一つ開いた。

杉浦明。

細い体をした少年だった。少年といっても、当時は源治たちと三つか四つしか違わなかったはずだ。だが、源治の記憶の中の杉浦は、いつも少年のままだった。

色の白い顔。細い首。少し猫背の背中。人の輪の少し外側に立っている姿。

よく笑う男ではなかった。かといって暗いだけの男でもなかった。話しかければ、ぼそっと返事をした。面白いことを言うわけではないが、人の悪口は言わなかった。

「橋から落ちたやつか」

源治が言った。

片桐はうなずいた。

「そうだ」

源治は、病室の白い床を見た。

覚えている。

町外れの古い橋だった。川と呼ぶには細く、用水路と呼ぶには広かった。橋の下は浅いところもあれば、急に深くなっているところもあった。夏になると、近所の子供がザリガニを取った。冬になると、水は黒く見えた。

杉浦明は、そこで死んだ。

公式には、事故だった。

夜、橋の上から足を滑らせて落ちた。頭を打ったか、水を飲んだか。発見が遅れた。

そんな話だった。

「事故じゃねえって、どういう意味だ」

源治は聞いた。

声が少し硬くなっていた。

片桐は、布団の上で細い指を動かした。何かを探すような指だった。煙草を探しているのだと、源治は思った。昔の片桐は、都合が悪くなると必ず煙草に火をつけた。

今、病室に煙草はない。

「俺たち、あの日、橋にいたんだよ」

「俺たちって誰だ」

「俺と、浜野と、立石と、あと……」

片桐はそこで止まった。

源治はその先を待った。

「あと、杉浦だ」

「浜野って、浜野俊夫か」

「ああ」

浜野俊夫。

その名前も、源治は覚えていた。

体の大きな男だった。声が太く、笑い方も大きかった。若い頃から妙に人を従わせるところがあった。喧嘩が強いというより、人を怖がらせるのがうまかった。

浜野の親父は、建材屋をやっていた。

ただの建材屋ではなかった。町の工務店も、土建屋も、祭りの寄付も、消防団も、商店会も、どこかで浜野の親父につながっていた。選挙のたびに、浜野の家の前には大きな看板が立った。市会議員が頭を下げに来た。町内の揉め事も、最後は浜野の親父が一言言えば収まる、そんなふうに言われていた。

若い連中にとって、浜野はその親父の影を背負った男だった。

浜野本人も、それをよく知っていた。

何かあっても、最後は親父が何とかする。誰かが文句を言っても、周りが黙らせる。そういう匂いを、浜野は若い頃から体にまとっていた。

その後、浜野は親父の商売を継いだ。

町の道路工事、学校の修繕、商店街の舗装、葬儀場の駐車場。そういう仕事に顔を出すようになった。いつの間にか、青年会の役員になり、祭りの実行委員になり、商工会の理事になった。

人はそういう男を、いつの間にか「地元の顔役」と呼ぶようになる。

源治は、浜野の葬式にも一度行っている。

花輪がいくつも並んでいた。議員の名前もあった。葬儀場の受付には、背広の男たちが並んでいた。浜野の若い頃を知る者は少し離れたところにいて、誰も余計なことは言わなかった。

人は死ぬと、だいたい立派になる。

「浜野はもう死んでるだろ」

源治が言った。

「死んでる」

「立石は」

「知らねえ。どこか行ったって聞いた。生きてるかどうかもわからねえ」

片桐は水を飲もうとして、コップに手を伸ばした。

手が震えていた。

源治は手を貸そうとしたが、やめた。片桐は自分でコップを持ち、少しだけ水を飲んだ。

水を飲むだけで、息が乱れた。

「で、何があった」

源治が言った。

片桐はしばらく黙っていた。

話し始めたくせに、話すことを怖がっている顔だった。

源治は少し苛立った。

「ここまで言って黙るなよ」

「わかってる」

「わかってるなら言え」

片桐は目を閉じた。

病室の白い光の中で、片桐のまぶたは薄かった。血管が見えそうだった。

「あの日、俺たちは飲んでた」

「酒か」

「少しな。俺たちも杉浦も、まだ未成年だったけど、あの頃は今みたいにうるさくなかった」

「それで」

「駅裏の屋台で飲んで、橋の方へ歩いた。浜野が杉浦をからかってた」

「何を」

「女のことでだ」

源治は黙った。

女のことで人は笑う。女のことで人は怒る。女のことで、ろくでもないことが起きる。

若い頃の町には、そういう話がいくらでもあった。

「杉浦は、同じ工場の女の子に手紙を渡したらしいんだ」

片桐が言った。

「手紙?」

「ああ。今考えりゃ、かわいいもんだよ。好きですとか、今度映画に行きませんかとか、そんなもんだったんだろ」

「その女が浜野の女だったのか」

「女ってほどじゃねえ。浜野が勝手に自分のものみたいに思ってただけだ」

源治は鼻で息を吐いた。

よくある話だった。

勝手に気に入る。勝手に自分のものだと思う。勝手に怒る。

若い男の縄張り意識ほど、くだらなくて面倒なものはない。

「浜野は杉浦を呼び出したのか」

「そうだ」

「お前らも一緒にいた」

「いた」

「止めなかったのか」

片桐は答えなかった。

源治は片桐の顔を見た。

答えないということが、もう答えだった。

片桐は続けた。

「最初は、本当にからかってるだけだった。浜野が杉浦の肩を小突いて、立石が笑って、俺も笑ってた」

「お前もか」

「ああ」

片桐は目を伏せた。

「俺も笑ってた」

源治は何も言わなかった。

病室の空気が、少し重くなったような気がした。

「杉浦は、やめてくれって言ってた。小さい声でな。だけど、ああいう時の小さい声ってのは、余計に面白がられるんだよ」

「わかるよ」

源治は短く言った。

わかりたくはなかったが、わかった。

弱い声は、時々、弱い人間を守らない。かえって、相手の悪いところを引き出す。

「橋の真ん中あたりで、浜野が杉浦を欄干の方へ押した」

「押した?」

「ああ。ふざけてだ。最初はな」

「最初は、か」

片桐はうなずいた。

「杉浦は欄干につかまった。浜野が笑った。立石も笑った。俺も……笑った」

片桐の声がかすれた。

「それから、浜野が言ったんだ。『飛び込めよ』って」

源治は片桐を見た。

「冬だぞ」

「冬だった」

「馬鹿か」

「馬鹿だったんだよ」

片桐の声が少し荒くなった。

「馬鹿だった。俺たちは、本当に馬鹿だった」

廊下で看護師の声がした。カートの車輪が小さく鳴った。

病室の中だけ、時間が古い方へ戻っていくようだった。

「杉浦は嫌がった」

片桐が言った。

「当たり前だ」

「浜野は、杉浦の胸ぐらをつかんだ。『手紙書く度胸があるなら、飛び込む度胸もあるだろ』って」

源治は目を細めた。

「くだらねえ」

「ああ」

「くだらねえにもほどがある」

「ああ」

「それで」

片桐は、布団の上で握っていた手をゆっくり開いた。

「杉浦が泣きそうな顔をしたんだよ」

源治は黙った。

「泣いたわけじゃない。涙が出たわけでもない。ただ、顔が歪んだ。子供みたいな顔になった」

片桐の目は、もう病室を見ていなかった。

四十年以上前の橋の上を見ていた。

「それを見て、浜野が余計に怒った」

「なんで怒るんだよ」

「今でもわからねえ」

片桐は、ゆっくり言った。

「今でもわからねえ。でも、あの頃はそういうことがあった。相手が怯えると、こっちが強くなった気がする。相手が泣きそうになると、なぜか腹が立つ。自分が悪いのに、相手の弱さに腹を立てる」

源治は、それを否定できなかった。

若い頃の自分にも、似たようなものがあった。森田の母親の目から逃げた時も、加藤社長の声から逃げた時も、源治は自分の弱さに腹を立て、それを誰かにぶつけた。

人は、自分が悪い時ほど、誰かを責めたくなる。

「浜野が杉浦を押した」

片桐が言った。

源治の背中が少し固くなった。

「どれくらいだ」

「強く、じゃない」

「強くない?」

「突き飛ばしたわけじゃない。たぶん、浜野も落とすつもりまではなかった」

「かばうな」

「かばってねえよ」

片桐は、初めて少し声を強くした。

「かばってねえ。ただ、本当のことを言ってるんだ。浜野は、落とすつもりで押したんじゃない。脅すつもりだった。怖がらせるつもりだった」

「同じことだ」

「そうだな」

片桐はすぐに言った。

「今になれば、同じことだ」

源治は黙った。

「杉浦は欄干に腰をぶつけた。手を伸ばした。俺の方を見た」

片桐の声が、急に細くなった。

「俺の方を見たんだよ」

源治は、片桐の手元を見た。布団の上で、片桐の指が小さく震えている。

「助けろって顔だった」

片桐は言った。

「声は出なかった。出したのかもしれないけど、俺には聞こえなかった。ただ、目がそう言ってた」

「お前は」

「動かなかった」

片桐は即座に答えた。

「動けなかった、じゃない。動かなかった」

病室の空気が、さらに重くなった。

源治は息を吐いた。

「それで落ちたのか」

片桐はうなずいた。

「落ちた」

窓の外で、駐車場の車のライトが一つ点いた。夕方が、夜に寄り始めていた。

「音がした」

片桐が言った。

「水の音か」

「ああ。でも、思ってたより小さい音だった。人が一人落ちても、川ってのは、そんなに大きな音を立てないんだな」

源治は何も言わなかった。

片桐は続けた。

「しばらく、誰も動かなかった。浜野も、立石も、俺も。橋の下を見た。暗くてよく見えなかった。杉浦がもがいてたのか、もう沈んでたのか、それもわからなかった」

「助けに降りなかったのか」

「降りなかった」

「なんでだよ」

「怖かった」

片桐は言った。

「水が怖かったのか」

「違う」

「じゃあ何が」

「自分たちがやったってことになるのが怖かった」

源治は、片桐を見た。

片桐はもう源治を見ていなかった。自分の手だけを見ていた。

「俺たちは逃げた」

片桐が言った。

その言葉は、病室の白い壁に当たって、そのまま落ちた。

「橋から逃げた。走った。途中で浜野が言った。『杉浦は勝手に落ちた。俺たちは知らない』って」

「それで通したのか」

「通した」

「全員で」

「全員で」

源治は椅子の背にもたれた。

腹の奥が、ゆっくり冷えていくようだった。

「警察には」

「言わなかった」

「聞かれただろ」

「聞かれた。最後に杉浦を見たのはいつかって。俺たちは、屋台のところで別れたって言った」

「揃えてたのか」

「浜野がそう言えって言った」

「お前は従った」

「ああ」

片桐は小さくうなずいた。

「従った」

源治は片桐を殴りたくなった。

だが、ベッドに横たわる片桐は、殴るにはあまりにも細かった。拳を振り上げる相手としては、もう遅すぎた。

怒りは、相手に届く場所がないと、自分の中で腐る。

「杉浦の母親、覚えてるか」

片桐が言った。

源治は少し目を閉じた。

覚えていた。

小柄な女だった。市場の惣菜屋で働いていた。いつも髪を後ろでまとめ、前掛けをしていた。源治も若い頃、何度かコロッケを買ったことがある。

杉浦が死んだあと、その母親は町で何度も同じことを言っていた。

あの子は一人で橋になんか行かない。あの子は水が怖かった。誰かと一緒だったはずだ。事故じゃない。

最初は、何人かが話を聞いた。

そのうち、誰も聞かなくなった。

かわいそうに。息子を亡くしておかしくなった。ああいうことを言い続けると、成仏できないよ。

町の人間は、そう言った。

源治も、どこかでそう思っていた。

気の毒だが、あの母親は壊れてしまったのだ、と。

「母親は、ずっと言ってたな」

源治が言った。

「ああ」

「事故じゃないって」

「ああ」

「正しかったのか」

片桐はうなずいた。

「正しかった」

源治は、しばらく何も言えなかった。

病室の中で、機械の電子音だけが小さく鳴っていた。

あの母親は正しかった。

町中が、あの母親をおかしいことにした。かわいそうな女にした。壊れた母親にした。

だが、壊れていたのは町の方だった。

「なんで今まで黙ってた」

源治は言った。

声が低かった。

片桐は答えなかった。

「四十年以上だぞ」

「ああ」

「杉浦の母親も死んだ」

「ああ」

「浜野も死んだ」

「ああ」

「今さら俺に言って、どうすんだよ」

片桐は目を閉じた。

「わからねえ」

「わからねえじゃねえよ」

「本当にわからねえんだよ」

片桐の声が、少し震えた。

「警察に言うべきだったのか。杉浦の母親に言うべきだったのか。浜野が生きてるうちに言うべきだったのか。全部、そうだ。全部、そうだったんだよ」

「だったら、そうすりゃよかっただろ」

「できなかった」

「なんでだ」

「怖かった」

「またそれか」

「またそれだよ」

片桐は、目を開けた。

その目は、若い頃の片桐ではなかった。ただの病人の目でもなかった。

長い間、自分の中に何かを閉じ込めてきた人間の目だった。

「源。あんただってわかるだろ」

片桐は言った。

「何が」

「あの町で生きるってことだよ」

源治は黙った。

「浜野の親父がいた。浜野本人もいた。あいつらに逆らって、この町で普通に生きられると思うか。工場も、飲み屋も、祭りも、消防団も、みんなつながってた。仕事の口も、借りた金も、女の噂も、全部どこかで回ってた」

片桐は息を整えた。

「それに、警察に言うってことは、ちんコロするってことだ」

源治の眉が少し動いた。

その言葉は、古かった。

今の若い者は、あまり使わないかもしれない。だが源治たちの若い頃、その言葉には重さがあった。

ちんコロ。

仲間のことを外に売る。警察に話す。掟を破る。

それは一番やってはいけないことだった。

喧嘩に負けるより悪い。金を返さないより悪い。女にだらしないより悪い。

ちんコロしたやつは、もう仲間ではなくなる。飲み屋にもいられない。雀荘にも顔を出せない。道で会えば、目をそらされる。悪ければ、どこかへ連れて行かれて殴られる。

その空気を、源治は知っていた。

知っていたから、何も言えなかった。

「ちんコロは、一番駄目だった」

片桐が言った。

「そうだな」

源治は小さく答えた。

「俺は怖かった。浜野が怖かった。浜野の親父が怖かった。町が怖かった。仕事がなくなるのが怖かった。女房に知られるのが怖かった。子供に知られるのが怖かった」

片桐は、そこで源治を見た。

「それに、自分が人を見殺しにした人間だって認めるのが、一番怖かった」

源治は返事をしなかった。

「なあ、源」

片桐の声が低くなった。

「もし、あんたが俺の立場だったら、言えたか」

源治は、すぐには答えなかった。

病室の外を、看護師の靴音が通り過ぎた。隣のベッドのカーテンの向こうで、誰かが寝返りを打った。

「俺なら言った」

そう言いたかった。

だが、その言葉は喉の手前で止まった。

若い頃の自分を、源治はよく知っている。

ろくでもなかった。都合が悪くなると逃げた。加藤社長の電話にも出なかった。森田の母親の目からも逃げた。美代子にも、ひどい言葉を投げた。

そんな自分が、浜野に逆らえたのか。

浜野の親父に睨まれて、町から外される覚悟があったのか。仲間からちんコロと呼ばれて、それでも警察に行けたのか。

源治には、答えられなかった。

「黙るなよ」

片桐が言った。

源治は片桐を睨んだ。

「うるせえ」

「言えたか」

「うるせえって言ってんだろ」

片桐は小さくうなずいた。

「そういうことだよ」

源治は腹が立った。

片桐に腹が立った。浜野に腹が立った。その町に腹が立った。そして、答えられなかった自分にも腹が立った。

「一緒にすんな」

源治は言った。

「一緒にはしてねえ」

「してるだろ」

「してるのかもしれねえな」

片桐は、疲れたように目を閉じた。

「でも、あんたならわかると思ったんだよ。立派な人間には、これは言えねえ。正しい人間には、言えねえ。あんたみたいに、逃げたことのある人間じゃねえと、聞いてもらえねえと思った」

源治は何も言わなかった。

言われたくないことを言われた時、人は怒る。だが、怒りの底に、少しでも心当たりがあると、その怒りはまっすぐ相手に飛ばない。

源治の怒りは、胸の中で行き場を失っていた。

「言い訳だってわかってる」

片桐は言った。

「全部、言い訳だ。でも、人間は言い訳で何十年も生きられるんだよ。朝起きて、飯食って、仕事して、酒飲んで、女房と喧嘩して、子供の学校のことで頭下げて、親の葬式出して。そうやってるうちに、言い訳が人生みたいな顔してくる」

源治は、片桐の言葉を聞いていた。

聞きたくなかった。

だが、耳は閉じられなかった。

「だけどな」

片桐は続けた。

「夜中に、たまに橋の夢を見るんだよ」

源治は片桐を見た。

「杉浦が落ちる前に、こっちを見る。俺を見る。俺は動かない。何度見ても、俺は動かない」

片桐の喉が鳴った。

「夢の中くらい、助ければいいのにな」

源治は返事をしなかった。

「夢の中でも、俺は助けねえんだよ」

片桐は、薄く笑った。

その笑いは、自分を笑っている笑いだった。

「最低だろ」

源治は言った。

「ああ」

片桐はうなずいた。

「最低だ」

「俺にそれを聞かせて、どうしろって言うんだ」

「何もしなくていい」

「嘘つけ」

「本当だ」

「だったら、なんで俺なんだよ」

源治の声が少し大きくなった。

隣のベッドのカーテンの向こうで、誰かが少し動いた気配がした。源治は声を落とした。

「俺は警察じゃねえ。新聞記者でもねえ。杉浦の親戚でもねえ。なんで俺なんだ」

片桐は、源治を見た。

「お前なら、死んだ人間を粗末にしねえと思った」

源治は動かなかった。

「加藤社長の墓、探したんだろ」

「それとこれは違う」

「違うけど、同じだ」

「同じじゃねえ」

「お前は、墓の場所がわかれば線香をあげに行く。そういう男だ」

「買いかぶるな」

「買いかぶってねえよ」

片桐は少し息を切らしながら言った。

「お前は立派な人間じゃねえ。俺も知ってる。若い頃のお前は、ろくでもなかった」

「今も大して変わらねえよ」

「そうかもしれねえ」

「否定しろよ」

片桐は少し笑った。

だが、すぐに苦しそうに咳き込んだ。

源治は黙って待った。

咳が収まるまで、片桐は細い胸を上下させていた。その胸の奥に、四十年以上前の橋がまだ残っている。

「源」

片桐が言った。

「何だ」

「杉浦の墓、どこにあるか知ってるか」

源治は答えなかった。

知らなかった。

杉浦の葬式には行っていない。行ったかもしれないが、記憶にない。その程度の関わりだった。

「知らねえ」

源治は言った。

「俺も知らねえ」

「なんだよ、それ」

「知らねえんだよ」

「ふざけんな」

源治は低く言った。

「俺に話して、墓も知らねえのか」

「だから、お前に頼みたかった」

「頼むなって言っただろ」

「わかってる」

「わかってねえ」

源治は椅子から少し身を乗り出した。

「お前は今、俺に荷物を渡してるんだよ。自分じゃ持ちきれなくなった荷物を、俺に渡してる」

片桐は黙っていた。

「言ったお前は、少し楽になるかもしれねえ。死ぬ時に、少し軽くなるかもしれねえ。だけどな、聞いた俺はどうすんだよ」

源治の声は震えていなかった。

怒っているのに、妙に静かだった。

「俺は今日、ただ顔を見に来ただけだぞ。昔のやつが死にそうだって言うから、しょうがねえなって来ただけだ。それが何だよ。橋から落ちたやつは事故じゃねえ。母親は正しかった。墓を探してくれ。ふざけんなよ」

片桐は、源治の言葉を黙って受けていた。

病室の外で、誰かが笑う声がした。場違いなほど明るい声だった。

「悪い」

片桐が言った。

「謝るな」

「悪い」

「謝るなって言ってんだろ」

「悪い」

源治は舌打ちをした。

謝罪というものは、時々、相手をもっと追い詰める。謝られた方は、怒り続ける場所を失う。

源治は窓の外を見た。

駐車場の端に、小さな軽自動車が見えた。自分の車かどうかはわからない。だが、あのどこかに、菓子の缶が積んである。線香と、蝋燭と、役に立たない百円ライター。

「杉浦の母親は、いつ死んだ」

源治が聞いた。

片桐は少し驚いたように源治を見た。

「十年くらい前だと思う」

「墓は」

「わからねえ」

「親戚は」

「知らねえ」

「家は」

「昔の家はもうない。道路広げる時に壊された」

「何も知らねえじゃねえか」

「ああ」

「よくそれで頼めたな」

「だから、お前しかいないと思った」

「理屈になってねえよ」

「わかってる」

源治は椅子の背に体を戻した。

右足が痛んでいた。病院まで歩いたせいかもしれない。怒っているせいかもしれない。古い痛みは、こういう時に顔を出す。

「聞くだけだって言った」

源治は言った。

「ああ」

「俺は何もしねえ」

「ああ」

「墓も探さねえ」

「ああ」

「誰にも言わねえ」

「ああ」

片桐は、ただうなずいた。

そのうなずき方が、源治には気に入らなかった。

全部わかっているような顔をする。わかっているなら、最初から言うな。

源治は立ち上がった。

「帰る」

片桐は引き止めなかった。

ベッドの上で、ただ源治を見ていた。

「源」

ドアの方へ向かった時、片桐が呼んだ。

源治は振り返らなかった。

「何だ」

「杉浦はな」

片桐の声が背中に届いた。

「最後まで、俺の方を見てた」

源治は動かなかった。

「それだけは、言っときたかった」

源治はゆっくり振り返った。

片桐は、もう窓の方を見ていた。病室の夕方の光が、片桐の頬のくぼみに薄く溜まっていた。

「それを聞かされた俺は、どうすりゃいいんだよ」

源治が言った。

片桐は答えなかった。

答えなど、最初からないのだろう。

源治は病室を出た。

廊下は明るかった。明るすぎるくらいだった。ナースステーションの前を通ると、看護師が軽く頭を下げた。源治も曖昧に頭を下げた。

エレベーターを待つ間、源治は壁にもたれた。

右足が痛んだ。

目を閉じると、見たこともないはずの橋が浮かんだ。

冬の川。欄干。若い浜野。笑っている立石。動かない片桐。そして、落ちる前にこちらを見る杉浦明。

源治は目を開けた。

「見てねえだろ、俺は」

小さくつぶやいた。

見ていない。その場にいなかった。関係ない。

そう思おうとした。

だが、片桐の話を聞いた瞬間から、源治もその橋の上に立たされていた。

エレベーターの扉が開いた。

源治は、ゆっくり中へ入った。

源治は病院を出た。

面会証を返すと、受付の女が事務の声で「お大事に」と言った。

お大事に。

誰を大事にすればいいのか、源治にはわからなかった。

自動ドアが開き、夕方の風が顔に当たった。病院の玄関先には、タクシーを待つ老人が二人、紙袋を下げた女が一人、腕を組んで、どこか煙草の吸える場所はないかと見回している男が一人いた。

源治は駐車場へ向かった。

右足が痛んだ。

歩くたびに、片桐の声が足の裏から上がってくるようだった。

杉浦はな。

最後まで、俺の方を見てた。

源治は舌打ちをした。

「こんなこと、俺に頼むんじゃねえよ」

声は風に消えた。

片桐は、何もしなくていいと言った。墓も探さなくていい。誰にも言わなくていい。そう言った。

だが、あれは嘘だ。

あんな話を聞かせておいて、何もしなくていいはずがない。

源治は軽自動車に乗った。

運転席に腰を下ろすと、膝の奥に鈍い痛みが来た。しばらくハンドルに両手を置いたまま動かなかった。

エンジンをかける。

バックミラーに、荷台の菓子の缶が映った。

線香。蝋燭。百円ライター。

加藤社長の墓へ行った時のまま、そこにある。

「まだ早えよ」

源治はミラーに向かって言った。

病院を出て国道へ入ると、橋へ向かう道が途中にあった。

源治はその道を知っていた。

町外れの古い橋。

杉浦明が落ちたという橋。

右へ曲がれば行ける。

ウインカーを出す手が、少しだけ動いた。

だが源治は曲がらなかった。

そのまままっすぐ走った。

「行ってどうすんだよ」

誰に言ったわけでもなかった。

アパートへ戻り、車を駐車場に入れた。エンジンを切ってもしばらく座っていた。

部屋に上がった。

テレビをつけた。

知らないタレントが、知らない町のうまいものを食って笑っていた。源治は音だけ聞いていた。笑い声がうるさい。リモコンで消した。

流しには、朝使った湯呑みが置いてある。テーブルの上には、昨日の新聞と、開けっぱなしの薬の袋があった。

何もすることがなかった。

何もしないでいると、片桐の顔が出てくる。杉浦の名前が出てくる。橋が出てくる。見てもいない橋の上に、自分が立たされる。

源治は上着をひっかけた。

車の鍵は持たなかった。

歩いて、駅から少し外れた古い飲み屋へ行った。

カウンターだけの小さな店だった。入口のガラス戸に、焼酎のポスターが色あせて貼ってある。暖簾は端が少しほつれていた。

戸を開けると、女将が顔を上げた。

「源ちゃん、今日は顔が怖いね」

「もとからだよ」

「ビールにする? お酒?」

「酒」

「冷やでいい?」

「何でもいい」

女将は余計なことを聞かなかった。小さな徳利と、厚い底のぐい呑みを置いた。

源治は一杯目を、ほとんど味も見ずに飲んだ。

店には常連が二人いた。

一人は競馬新聞を開いている年寄り。もう一人は、源治より二十も三十も若い男だった。昔、町役場の臨時をやっていたとかで、役所の手続きや、コピー機や、パソコンのことを少し知っている。便利屋のようなこともしている男だった。

源治は二杯目を注ぎながら、ふと聞いた。

「昔の新聞ってのは、どうやったら見られるんだ」

若い男が顔を上げた。

「何ですか、源さん。昔の女でも探してるんですか」

女将が笑った。

「焼けぼっくいに火がついた?」

「馬鹿言え」

源治は酒を口に運んだ。

「俺が生まれた日に、世の中で何があったか知りてえんだよ。おめえも知りたくねえか」

「源さんが生まれた日ですか。そりゃ大事件ですね」

「うるせえ」

若い男は笑いながら、箸で冷奴を崩した。

「古い新聞なら、図書館で相談すればいいんじゃないですか。国会図書館とか、県立図書館とか。地方紙なら取り寄せできるかもしれないですよ」

「国会図書館?」

「はい」

「図書館のお化けみてえなもんか」

「まあ、本は化け物みたいにありますけどね。誰でも使えますよ。近所の図書館で聞けば、調べ方くらいは教えてくれると思いますよ」

「ふうん」

「何を調べたいんですか、本当は」

「だから、俺の生まれた日だって言ってんだろ」

「はいはい」

若い男は、それ以上追わなかった。

源治は酒を飲んだ。

喉を通る時だけ熱く、そのあと腹の中が冷えていくようだった。

マッポにチクるか。

源治は、ぐい呑みの底を見ながら考えた。

今さら警察へ行って、何になる。

浜野は死んだ。浜野の親父も死んだ。立石はどこへ行ったかわからない。片桐は病院のベッドの上で、いつまで持つかわからない。

証拠はない。

あるのは、片桐の口から出た話だけだ。

しかもその片桐は、四十年以上黙っていた男だ。

これは犯罪だ。

杉浦は事故で死んだんじゃない。殺されたようなものだ。

そう思う。

だが、思ったところで、どうなる。

町には町のルールがある。

ちんコロは、一番やっちゃいけない。

マッポにチクる。仲間を外へ売る。昔の連中の間では、それは喧嘩に負けるより悪かった。金を返さないより悪かった。女にだらしないより悪かった。

若い頃の話だ。

だが、年を取ったからといって、それがきれいに消えるわけではない。

一つ二つの年の違いが、天皇陛下と乞食ほど違った時代があった。先輩は先輩。後輩は後輩。強い家のやつは強い家のやつ。弱い家のやつは弱い家のやつ。

七十になっても、その位置は心のどこかに残っている。

浜野は浜野。

片桐は片桐。

田辺は田辺。

源治は源治。

誰も口には出さない。だが、昔の町は、今もそれぞれの腹の中に住んでいる。

「もう一杯」

源治が言うと、女将が徳利を替えた。

「源ちゃん、やっぱり今日は荒れてるね」

「荒れてねえよ」

「荒れてる人は、みんなそう言うの」

「うるせえな」

女将は笑って、黙った。

源治はぐい呑みを手の中で回した。

まだ、何も受けてはいなかった。

逃げる道はいくらでもある。

忘れればいい。

聞かなかったことにすればいい。

片桐が死んだら、あの話も一緒に死ぬ。

そう思えば、楽だった。

だが酒を飲めば飲むほど、楽にはならなかった。

杉浦はな。

最後まで、俺の方を見てた。

片桐の声だけが、酒に沈まなかった。

数日後、源治は近所の図書館へ行った。

図書館に用事がある人生ではなかった。

入口の自動ドアの前で一度立ち止まり、掲示板に貼ってある子どもの読書週間だの、俳句講座だのの紙を見た。中に入ると、床が妙に静かだった。靴の音が大きく聞こえる。

受付の女に、四十年ほど前の地方紙を見たいと言った。

日付ははっきりしない。片桐の話、杉浦の死んだ季節、源治の薄い記憶をつなぎ合わせて、だいたいの時期だけを言った。

受付の女は慣れた様子で申込用紙を出した。

「少しお時間がかかるかもしれません」

「どのくらいだ」

「確認してみないとわかりませんが、届きましたらお電話します」

「本当に来るのか」

「はい。探してみます」

源治は、字を書くのに少し時間がかかった。新聞名も曖昧だった。日付も幅を持たせて書いた。

受付の女は、嫌な顔をしなかった。

一週間ほどして、図書館から電話が来た。

「ご依頼の新聞が届きました。閲覧できますので、お時間のある時にお越しください」

源治は昼過ぎに図書館へ行った。

閲覧席に案内された。

机の上に、古い新聞のコピーが置かれていた。紙は新しいはずなのに、そこに印刷された活字だけが古かった。

地方版だった。

源治は指で紙を押さえた。

記事は、小さかった。

新聞の片隅。

二十行か、三十行。

見出しも小さい。

若い男性、橋から転落。

搬送先で死亡。

警察では、誤って足を滑らせた事故とみて調べている。

そんな内容だった。

源治は一回読んだ。

何も入ってこなかった。

二回読んだ。

杉浦明という名前が、薄い活字の中にあった。

三回読んだ。

浜野の名前はない。片桐の名前もない。立石の名前もない。

四回読んだ。

杉浦の母親が、事故じゃないと言い続けたこともない。あの子は一人で橋へなんか行かないと言ったこともない。

五回読んだ。

橋の上で何があったかは、どこにもない。

杉浦が泣きそうな顔をしたこともない。

欄干に腰をぶつけたこともない。

片桐を見たこともない。

誰も助けに降りなかったこともない。

ただ、誤って落ちた。

それだけだった。

源治はコピーを見つめた。

腹の底に、小さい火がついた。

最初は煙のようなものだった。

それが、読むたびに少しずつ大きくなる。

なめんじゃねえ。

ふざけあがって。

これで終わりかよ。

杉浦明って男の死は、これだけかよ。

声には出せなかった。

図書館の中だった。

斜め前の席では、老人が新聞を読んでいる。窓際では学生がノートに何かを書いている。司書が低い声で誰かに本の場所を教えている。

源治だけが、黙ったまま煮えていた。

怒鳴れない場所で怒りが湧くと、怒りは行き場をなくす。

行き場をなくした怒りは、胸の内側を焼く。

源治は歯を噛んだ。

町全体が隠したんだ。

浜野だけじゃない。

片桐だけじゃない。

立石だけじゃない。

町が、これを事故として飲み込んだ。

警察も、新聞も、近所の連中も、飲み屋の噂も、祭りの顔ぶれも、商店会も、みんなで飲み込んだ。

なぜか。

自分の立ち位置を守るためだ。

浜野の家に逆らいたくなかった。

面倒に巻き込まれたくなかった。

ちんコロと言われたくなかった。

今まで通りの町で、今まで通りに生きたかった。

そのために、杉浦は誤って落ちたことになった。

そして、源治も今から同じことをする。

警察へは行かない。

町中に言いふらさない。

浜野の息子や孫に殴り込むわけでもない。

結局、自分も隠す側に回る。

それがわかった。

わかったから、余計に腹が立った。

古い町からは逃げられない。七十になっても、昔の位置から完全には降りられない。

だが、この二十行で終わりにされたままにしておくのも、違う。

源治はコピーを畳むように、指で端を押さえた。

五分と五分だったものが、少しだけ傾いた。

六分と四分。

探す方へ、少しだけ。

源治は、そのあと橋へ行った。

町外れの古い橋だった。

橋そのものは残っていた。ただ、舗装は新しくなり、欄干も補修されていた。橋名板だけが、昔のままくすんで残っている。

源治は橋のたもとに車を停めた。

降りると、風が川筋を通ってきた。昔より冷たくない。昔より匂いも薄い。川が小さくなったせいかもしれない。

川は変わっていた。

昔は、土と石の護岸だった。浅いところには石が見えた。ところどころ、急に深くなる場所があった。夏には子どもがザリガニを取った。冬になると、橋の下の水だけが黒く見えた。

今は両岸がコンクリートで固められている。水は細く、昔よりおとなしく見えた。

それでも、橋の下だけは暗かった。

源治は橋のたもとから歩き始めた。

片桐の話が、足音に混じって戻ってくる。

駅裏の屋台で少し飲んだ。

酔いつぶれるほどではない。

ただ、声が大きくなり、気が大きくなるくらいには飲んでいた。

浜野が杉浦をからかった。

女への手紙のことで。

立石が笑った。

片桐も笑った。

杉浦は、小さい声でやめてくれと言った。

その小さい声が、余計に相手を面白がらせた。

源治は欄干に手を置いた。

補修された欄干は、昔の錆びた鉄ではなかった。手に触れると、少し冷たかった。

「ここを歩いたのかよ」

小さく言った。

橋の真ん中あたりで、源治は足を止めた。

片桐の声がした。

浜野が杉浦を欄干へ押した。

ふざけていた。

脅かしていた。

落とすつもりではなかった。

だが、浜野の後ろにはいつも親父の影があった。

町の実力者の影。

片桐も知っていた。立石も知っていた。杉浦も知っていた。

この町で生きていくには、浜野に逆らえない。

浜野の後ろにある家に逆らえない。

杉浦が欄干に腰をぶつけた。

手を伸ばした。

片桐の方を見た。

助けろ、という目。

片桐は動けなかった。

水が怖かったのではない。

夜が怖かったのでもない。

降りれば、浜野がやったことを認めることになる。

杉浦を助ければ、浜野に逆らったことになる。

この先、この町でどう生きるのか。

どこの飲み屋に顔を出すのか。

誰の紹介で仕事をもらうのか。

祭りで誰の前に立つのか。

そういうものが、片桐の足を止めた。

動けなかった。

いや、動かなかった。

橋から水面までは、四、五メートルほどある。

落ちれば危ない。石に頭を打てば死ぬ。だが、降りようと思えば降りられたかもしれない。すぐに降りれば、何かできたかもしれない。

誰も降りなかった。

見下ろしただけ。

そして逃げた。

源治は橋を渡りきった。

反対側で振り返った。

町は変わった。

昔あった屋台はない。市場へ抜ける細い道も半分は駐車場になっている。空き地にはドラッグストアが建ち、古い工場は建売住宅になっていた。

だが、変わっていないものもある。

浜野の家だ。

浜野の親父は実力者だった。

浜野は、その七光りを背負って威張っていた。

そして今は、浜野の息子が町でかなりの顔をしている。

祭り、町内会、商工会、工事の話、葬儀場の駐車場。

牛耳っている、とまでは言えない。

だが、あの家は三代にわたって、この町に根を張っている。

死んだ浜野を掘り返したところで、出てくるのは骨だけではない。

生きている連中まで出てくる。

源治は川を見下ろした。

「馬鹿どもが」

本当に小さな声だった。

その足で、源治は板金屋の田辺のところへ行った。

工場の前に、修理途中の軽トラックが停まっていた。フェンダーに白い下地が塗られている。奥ではラジオが鳴っていた。演歌と天気予報の間の、やけに明るい声だった。

田辺はフェンダーを磨いていた。

鼻の頭に白い粉がついている。爪の間には黒い汚れが入り、首には古いタオルを巻いていた。

「おう、源さん。今日はなんだよ」

田辺は手を止めずに言った。

「忙しそうだな」

「見りゃわかるだろ」

「ちょいと教えてくれよ」

「何を」

「昔よ」

源治は工場の入口に立ったまま言った。

「四十年ぐらい前に、橋から落ちたやついたような」

田辺の手が止まった。

ほんの一瞬だった。

だが源治にはわかった。

田辺は知っている。

知っているが、すぐには出さない。

「あ? 橋から?」

田辺は顔を上げた。

「どこの橋だよ」

源治は、こいつとぼけやがったな、と思った。

「町外れの古い橋だよ」

「ああ」

田辺の「ああ」は、少し重かった。

「落ちて人が死んだことあったな」

「そいつのことだよ」

源治は少し強く言った。

田辺は嫌な顔をした。

「あの事故か」

「事故な」

源治が短く返すと、田辺は目をそらした。

「俺らより二つ三つ下の……杉浦ってやつだったよな、たしか」

「そうだよ。杉浦だよ」

ラジオだけが明るい声を出していた。

しばらく、フェンダーを磨く音もしなかった。

「なんだよ、それが」

田辺は低く言った。

「俺に関係あんのかよ」

「お前に言ってんじゃねえよ」

「じゃあ何だよ」

「探してんだよ」

「何を」

「墓だよ」

「墓?」

田辺は、ますます嫌な顔をした。

「あの話、今さら掘るのかよ」

「掘りたかねえよ」

「だったら何で」

「線香ぐらい上げても罰は当たらねえだろ」

田辺は黙った。

その沈黙で十分だった。

あの事故が、本当は事故ではなかったのかもしれないことを、田辺も知らないわけではなかった。

町の古い人間は、みなどこかでそう思っていた。

杉浦の母親は、ずっと言っていた。

あの子は一人で橋なんか行かない。

事故じゃない。

だが、町は聞かないことにした。

事故で収まった。

収まった以上、蒸し返さない。

そういう空気が、町にはあった。

田辺はタオルで手を拭いた。

「母ちゃん、市場の惣菜屋にいたよな」

「どこだ」

「もうねえよ。市場も半分死んでる。魚屋も八百屋も、みんな閉めちまった。乾物屋の婆さんなら覚えてるかもしれねえけど……」

田辺は少し考えた。

「そういや、吉村さん、覚えてるか」

「吉村?」

「昔、加藤自動車にいた事務員の婆さんだよ。社長の墓の時も、あんた聞きに行ったろ」

「ああ」

「あの人、あの辺のこと詳しかったはずだ。市場の人間も、杉浦の母ちゃんも知ってたんじゃねえかな」

「まだ生きてんのか」

「たぶんな。八十は過ぎてるだろうけど。消防署裏の古い米屋の角、あの辺だよ。前にも行ったんだろ」

「道なんか忘れたよ」

「犬が吠える細い路地だよ」

「それじゃわかんねえよ」

田辺は少しだけ笑った。

だがすぐに顔を戻した。

「源さん」

「何だ」

「あんまり大きな声で聞いて回るなよ」

「何でだ」

「わかるだろ」

「何が」

「浜野の家、まだあるんだぞ」

源治は何も言わなかった。

田辺は、工場の入口を顎でしゃくった。

「うちの前の道、広げるって話があったろ。あの時、入口削られるってんで揉めてよ。役所に言っても話にならねえ。結局、浜野さんが間に入ってくれたんだ」

源治は入口の方を見た。

確かに、シャッターの前だけ縁石が少し不自然にへこんでいる。車一台が入りやすいように、そこだけ逃げていた。

「うちの親父の葬式にも来た。香典も置いてった。祭りの時は金も出した。そういう人なんだよ、あの人は」

「だから何だ」

田辺は返さなかった。

源治もそれ以上言わなかった。

悪いことだけでできている人間なら、話は簡単だ。

だが、そうではない。

町の顔役は、威張るだけではない。困った時に顔を出す。金を出す。役所に電話をかける。葬式で頭を下げる。そうやって町のあちこちに、小さな借りを作っていく。

その借りが、口を重くする。

田辺は悪口を言っているわけではなかった。

かといって、全部を信じているわけでもなかった。

工場の奥で、ラジオの天気予報が終わった。

「吉村さんに聞いてみるよ」

源治が言った。

田辺は返事をしなかった。

源治は工場を出た。

車に戻ると、荷台の菓子の缶が見えた。

線香。

蝋燭。

百円ライター。

まだ墓の場所はわからない。

吉村さんに会っても、何も出ないかもしれない。

明日になれば、全部面倒になって、やめることもできる。

今ならまだ引ける。

源治は運転席に座ったまま、しばらく缶を見ていた。

それから手を伸ばし、缶を少しだけ荷台の奥へ押し込んだ。

捨てるわけではなかった。

車から降ろすわけでもなかった。

ただ、運転席から見えにくいところへやっただけだった。

それでも缶は、車の中に残っていた。

源治が吉村さんの家へ行ったのは、田辺の工場を出てから三日ほど経ってからだった。

三日というのは、長いようで短い。

行こうと思えば、その日のうちにも行けた。

翌日にも行けた。

だが源治は行かなかった。

朝起きて、顔を洗い、冷えた飯に味噌汁をかけて食う。テレビをつける。知らない事件のニュースを見る。薬を飲む。横になる。起きる。外へ出る。スーパーで豆腐と安い総菜を買う。

そうしている間にも、杉浦明という名前は、消えなかった。

消えないなら、はっきり考えればいい。

源治はそう思った。

だが、人間は、はっきり考えたくないことほど、何かの拍子にだけ考える。

湯呑みを洗っている時。

靴下を履く時。

信号で止まった時。

夜中に目が覚めた時。

ふっと出てくる。

杉浦はな。

最後まで、俺の方を見てた。

源治はそのたびに、舌打ちをした。

「しつけえな」

誰に向かって言っているのか、自分でもわからなかった。

三日目の昼過ぎ、源治は車の荷台を開けた。

奥へ押し込んだ菓子の缶が、少し斜めになっていた。

源治はそれを見た。

缶は何も言わない。

だが、そこにあるだけで、何か言っているように見える。

源治は缶を手前へ戻すこともしなかった。

降ろすこともしなかった。

荷台を閉めた。

「聞くだけだ」

そう言って、車に乗った。

聞くだけ。

それ以上は知らない。

そう自分に言い聞かせた。

消防署裏の古い米屋の角。

田辺はそう言った。

源治は、そのあたりへ前にも一度来ている。加藤社長の墓を聞きに、吉村さんを訪ねた時だ。

だが、その時は加藤社長のことで頭がいっぱいだった。

白いジャンパーを着た社長の写真。

畳の六畳間。

仏壇の横の古い写真。

吉村さんの「源ちゃん、あんた、生きてたの」という声。

覚えているのは、そういうものばかりだった。

道順までは、はっきりしない。

源治は消防署の裏手へ車を向けた。

古い米屋は、もうなかった。

いや、前に来た時もなかったのかもしれない。あったのに気づかなかったのかもしれない。そこも曖昧だった。

源治が記憶していたあたりには、白い壁の小さなアパートが建っていた。駐車場の奥に、錆びた自転車が二台、倒れたまま置かれている。昔、米屋の配達用の軽トラックが停まっていた場所のようにも見えた。

「米屋なんか、ねえじゃねえか」

源治は車の中でつぶやいた。

消防署の建物も、昔よりきれいになっている。赤いシャッターだけは昔と同じように見えたが、その横にあった煙草屋はなくなっていた。

源治は車をゆっくり走らせた。

道は細い。

昔はもっと広かったような気がした。

だが、それは自分が若かったからかもしれない。

若い頃は、道も町も人も、少し大きく見える。

犬が吠える細い路地。

田辺はそうも言った。

犬は、なんとなく覚えている。

前に来た時も、どこかで犬が吠えた。

それが吉村さんの家だったのか、隣の家だったのかは、もうわからない。

源治は、一度通り過ぎた。

また戻った。

曲がり角の先で、宅配便の車が止まっていた。

後ろから自転車の婆さんが来て、源治の車をじろりと見た。

源治は窓を開けた。

「すいませんね」

婆さんは止まった。

「この辺に、吉村さんって婆さん、住んでませんかね。昔、加藤自動車にいた」

婆さんは源治の顔を見た。

車を見た。

また源治の顔を見た。

こういう時、人はまず相手を見る。

用件より前に、相手を見る。

源治はそれを知っている。

自分の顔が、人に安心を与える顔ではないことも知っている。

「吉村さん?」

「ええ。八十過ぎだと思うんだけど」

「吉村の春江さんかね」

「下の名前は知らねえんです」

「昔、事務やってた人?」

「ああ、それです」

婆さんは、少しだけ表情をゆるめた。

「あの角を右。突き当たり手前の、青い植木鉢が並んでる家」

「青い植木鉢?」

「行けばわかるよ。たくさん置いてあるから」

「どうも」

源治は頭を下げた。

車を少し進め、言われた角を曲がった。

路地はさらに細くなった。

昼間なのに、家と家の間が近く、少し暗い。エアコンの室外機が低く唸っていた。どこかの台所から、煮物の匂いがした。

突き当たりの手前に、青い植木鉢が並んでいる家があった。

植木鉢には、何が植わっているのかわからないものが多かった。枯れかけた草、伸びすぎた葉、名札の文字が消えた鉢。中に一つだけ、赤い小さな花が咲いていた。

「ああ、ここか」

源治は、そこでようやく思い出した。

前に来た時も、この鉢を見た。

ただ、その時は植木鉢など見ていなかったのだ。

玄関脇の表札は、字が薄れていた。

吉村。

かろうじて読めた。

源治は車を少し離れた場所に停めた。

足を引きずりながら玄関まで歩いた。

呼び鈴を押す。

中で、犬が吠えた。

「これかよ」

源治は小さく言った。

しばらくして、すりガラスの向こうに人影が揺れた。

「どちらさん」

細い声だった。

「黒崎です。黒崎源治です」

少し間があった。

「源ちゃん?」

「ええ」

戸が少し開いた。

吉村春江は、前よりさらに小さく見えた。

髪は真っ白で、後ろで小さく束ねている。灰色のカーディガンを着て、首に薄い手ぬぐいを巻いていた。足元には、年を取った小さな犬がいて、吠えるだけ吠えて、もう疲れたように源治を見ていた。

「あんた、また来たの」

「すいませんね」

「今度は誰のお墓?」

吉村は、源治の顔を見て、そう言った。

源治は返事に詰まった。

「まあ、上がんなさい」

吉村は戸を開けた。

源治は靴を脱いだ。

上がり框が少し高い。右足を上げる時、膝に痛みが来た。

「足、まだ悪いの」

「良くなるもんでもねえですから」

「そうね」

吉村はそれだけ言って、奥へ歩いた。

六畳の部屋だった。

畳は古いが、掃除はされていた。窓際に小さな座卓があり、その上に湯呑みと新聞と、薬の袋が置いてある。壁には、昔のカレンダーを切り抜いた富士山の写真が貼ってあった。

仏壇の横には、加藤社長の写真があった。

白いジャンパーを着て、少し腹を突き出して笑っている。

源治はその写真を見て、少し頭を下げた。

「社長の墓、行ったんだって?」

吉村が言った。

「ええ」

「迷ったろ」

「迷いましたよ」

「加藤さん、死んでからも人を歩かせるねえ」

吉村は小さく笑った。

源治も少し笑った。

だが、すぐに黙った。

吉村は湯呑みに茶を注いだ。急須の蓋が、かたかたと鳴った。

「それで、今日は?」

源治は座布団の上で、少し姿勢を直した。

「昔のことで、聞きたいことがありまして」

「昔のことばっかりだね、あんたも」

「今のことは、あんまり用がねえんです」

「そう」

吉村は湯呑みを源治の前に置いた。

「で、誰?」

源治は茶には手をつけなかった。

「杉浦って、覚えてますか」

吉村の手が、ほんの少し止まった。

それは、田辺の時と似ていた。

知っている。

だが、すぐには言わない。

そういう止まり方だった。

「杉浦さん?」

「昔、橋から落ちて死んだ」

吉村は源治を見た。

目だけは、年のわりにまだはっきりしていた。

「ああ」

吉村は小さく言った。

「あの子ね」

源治は黙っていた。

「明ちゃん」

「杉浦明です」

「そう。明ちゃん」

吉村は湯呑みを両手で包んだ。

部屋の外で、犬が一度だけ小さく鳴いた。

「覚えてますか」

「覚えてるよ。忘れないよ、ああいうことは」

吉村はゆっくり言った。

「あの子のお母さん、市場の惣菜屋で働いてたんですよね」

「働いてた。朝早くからね。コロッケとか、煮物とか、天ぷらとか出してた。手が早い人だった」

吉村の声が、少し柔らかくなった。

「小柄な人でね。いつも前掛けしてた。髪を後ろでぎゅっと結んで。お金の計算が早くてね。釣り銭を間違えたところなんか見たことなかった」

源治は市場の匂いを思い出した。

魚の匂い。揚げ油の匂い。濡れた段ボール。店先に並んだコロッケ。昼前になると、近所の工場の連中が買いに来る。

若い頃の源治も、何度かあの市場でコロッケを買ったことがある。

それが杉浦の母親だったのかどうか、もう記憶は曖昧だった。

「明ちゃんは、おとなしい子だったね」

吉村が言った。

「そうでしたね」

「お母さん思いでね。市場の帰り、荷物持って歩いてるのを何度か見たよ。今どきの子と違って、えらいねって、みんな言ってた」

吉村はそこで少し黙った。

湯呑みの中の茶が、少し揺れた。

「あの子が死んでから、お母さん、ずいぶん変わった」

源治は顔を上げた。

「事故じゃないって、言ってたんですよね」

吉村はすぐには答えなかった。

畳の目を見ていた。

「言ってたよ」

小さな声だった。

「ずっと?」

「ずっと」

吉村は湯呑みを置いた。

「あの子は一人で橋になんか行かない。水が怖い子だった。誰かと一緒だったはずだ。そう言ってた」

「町の人間は」

「最初は聞いたよ」

吉村は言った。

「かわいそうだったからね。息子を亡くした母親の言うことだから。みんな、うんうんって聞いた」

「そのうち?」

「そのうち、聞かなくなった」

部屋が静かになった。

外で、誰かの自転車のブレーキが鳴った。

「どうしてですか」

源治が聞いた。

吉村は源治を見た。

その目に、責めるような色はなかった。

だが、逃げ道をくれない目だった。

「どうしてだと思う?」

源治は答えなかった。

「みんな、暮らしてたからだよ」

吉村は言った。

「毎日、店を開けなきゃいけない。子どもを学校へやらなきゃいけない。借金を返さなきゃいけない。祭りもある。町内会もある。葬式もある。顔を合わせなきゃいけない人がいる」

吉村は淡々と言った。

「そういう中で、あの話を毎日聞くのは、重かったんだよ」

「重いから、聞かなかった」

「そう」

「それで事故にした」

源治の声が少し硬くなった。

吉村は首を振らなかった。

うなずきもしなかった。

「事故になったんだよ」

そう言った。

源治は湯呑みを見た。

茶の表面に、窓の光が細く映っていた。

「浜野の名前、出てましたか」

源治が聞いた。

吉村はまた黙った。

その沈黙は長かった。

「源ちゃん」

「はい」

「あんた、何を聞いて回ってるの」

「墓を探してるんです」

「お墓だけ?」

源治は答えなかった。

吉村は小さく息を吐いた。

「浜野さんの家には、町がずいぶん世話になったよ」

その言い方は、悪口ではなかった。

むしろ、丁寧だった。

「お父さんの代からね。道路のこと、祭りのこと、消防団のこと。困ったことがあると、誰かが浜野さんのところへ行った。役所に話を通してくれたり、寄付を集めてくれたりね」

吉村は仏壇の方を見た。

「加藤さんも、浜野さんとは付き合いがあったよ。喧嘩もしたけど、頼ることもあった」

「そういう家だから、誰も何も言えなかった」

源治が言った。

吉村は、少し困った顔をした。

「そう言い切ると、違う気もするね」

「違うんですか」

「言えなかったのもある。言いたくなかったのもある。助けてもらったことがある人もいる。嫌な思いをした人もいる。怖かった人もいる。恩があった人もいる」

吉村は、源治の目を見た。

「町っていうのは、そういうのが全部混ざってるんだよ」

源治は何も言えなかった。

吉村は浜野の悪口を言わない。

だが、知らないわけではない。

源治にはそれがわかった。

知らないふりではない。

言い切らないだけだ。

それがこの町で長く生きる人間の言葉だった。

「杉浦の墓、知ってますか」

源治は聞いた。

吉村は少し首をかしげた。

「杉浦さんちは、たしか町内のお寺じゃなかったね」

「どこです」

「お母さんの実家が隣町だったはずだよ。あの人、明ちゃんが亡くなってからしばらくして、そっちへ移ったんじゃなかったかね」

「隣町」

「西光寺さんじゃなかったかな」

「西光寺」

源治はその名前を口の中で繰り返した。

「でも、私の記憶だからね。間違ってるかもしれない」

「他に知ってそうな人は」

「丸倉さん」

「丸倉?」

「丸倉葬儀社。古い葬儀屋さん。杉浦さんの葬式も、たしかあそこがやったはずだよ。お母さんの時も、たぶん」

「葬儀屋なら寺もわかるか」

「わかるでしょう。昔の葬儀屋は、お寺さんのことも、お墓のことも、よく知ってるからね」

源治はうなずいた。

「ありがとうございます」

そう言って立ち上がろうとした。

「源ちゃん」

吉村が呼んだ。

源治は動きを止めた。

「何ですか」

「あんまり、腹を立てすぎない方がいいよ」

源治は少し笑った。

「もう遅いですよ」

「そうかもしれないね」

吉村も少し笑った。

だが、すぐに真顔に戻った。

「でもね、腹を立てると、人は正しい方へ行っているつもりで、違う方へ歩くことがあるから」

源治は返事をしなかった。

「杉浦さんのお母さんも、ずっと怒ってた。怒らなきゃ生きていられなかったんだと思う。でも、その怒りを受け止める人がいなかった」

吉村は湯呑みを見た。

「かわいそうだったよ」

「杉浦の母親が?」

「お母さんも。明ちゃんも」

吉村は少し間を置いた。

「それから、聞かなかったふりをして生きた人たちもね」

源治は吉村を見た。

吉村は目をそらさなかった。

「自分のことですか」

「さあね」

吉村は小さく笑った。

「年を取ると、誰のことを言ってるのか、自分でもわからなくなるよ」

源治は何も言えなかった。

玄関まで送られた。

犬はもう吠えなかった。上がり框の横で丸くなり、片目だけ開けて源治を見た。

源治は靴を履いた。

右足を入れる時、少し手間取った。

「足、気をつけなさいよ」

「ええ」

「西光寺に行くなら、坂があるよ」

「そうですか」

「お墓は逃げないから、慌てないことだね」

源治は戸口で一度頭を下げた。

「吉村さん」

「何」

「町の人間は、みんな知ってたんですかね」

吉村はすぐには答えなかった。

外の光が、すりガラスに白く広がっていた。

「みんな、というのは便利な言葉だね」

吉村は言った。

「でも、便利な言葉ほど、だいたい本当じゃない」

「じゃあ」

「知っていた人もいる。知りたくなかった人もいる。知らないままでいたかった人もいる」

吉村は、そこで少しだけ声を落とした。

「ただ、あのお母さんが嘘を言っているとは、誰も本気では思ってなかったんじゃないかね」

源治は息を吐いた。

「そうですか」

「そうだよ」

吉村は静かに言った。

「それが、一番ひどいんだよ」

源治は外へ出た。

戸が閉まると、家の中の匂いも、畳の暗さも、吉村の声も、一度に遠くなった。

青い植木鉢の赤い花が、風で少し揺れていた。

源治は車へ戻った。

運転席に座ると、しばらく動かなかった。

西光寺。

丸倉葬儀社。

手がかりは二つになった。

だが、気持ちは軽くならなかった。

吉村さんに会えば、何も出ないかもしれないと思っていた。

何も出なければ、やめる口実になると思っていた。

だが、出てしまった。

名前が出た。

寺が出た。

葬儀屋が出た。

やめる理由が、一つ減った。

源治はバックミラーを見た。

荷台の奥に押し込んだ菓子の缶は、半分だけ見えていた。

「まだ、行くとは言ってねえぞ」

源治はそう言った。

だが、エンジンをかける前に、ポケットから古いレシートを出した。

裏に、短く書いた。

西光寺。

丸倉葬儀社。

字は少し曲がっていた。

源治はそのレシートを折って、胸ポケットに入れた。

源治が丸倉葬儀社へ行ったのは、吉村さんの家を出た翌日の昼前だった。

行くつもりで起きたわけではない。

朝、目が覚めて、しばらく天井を見ていた。

湯を沸かし、茶を飲み、昨日の残りの飯に醤油をかけて食った。テレビをつけると、若い女が笑いながら天気を伝えていた。

晴れ。

それだけ聞いて、源治はテレビを消した。

胸ポケットには、昨日のレシートが入っていた。

西光寺。

丸倉葬儀社。

寝る前に、何度か取り出して見た。

朝になっても、文字は消えていなかった。

源治はレシートを指で押さえた。

「聞くだけだ」

また同じことを言った。

最近、同じ言葉ばかり言っている。

聞くだけ。

線香だけ。

墓だけ。

言えば言うほど、その言葉が嘘くさくなる。

源治は上着を着て、車の鍵を取った。

丸倉葬儀社は、駅から少し離れた県道沿いにあった。

昔は、黒い看板の古い葬儀屋だった。

軒先に花輪が並び、白い幕が張られ、奥の土間にはいつも線香と畳と湿った木の匂いがしていた。葬式がある日は、近所の女たちが割烹着で出入りし、男たちは外で煙草を吸いながら、故人の話とも噂話ともつかないことを低い声でしていた。

今は違った。

白い壁の、小ぎれいな建物になっていた。

大きなガラス戸。

入口の横には観葉植物。

駐車場には白いワゴン車が停まっている。

看板には、丸倉セレモニーと横文字が入っていた。

「セレモニーだとよ」

源治は車の中でつぶやいた。

昔は葬式と言った。

今はセレモニーと言うらしい。

入口の中には、葬儀プランのパンフレットが並んでいた。

家族葬。

一日葬。

直葬。

字だけ見ると、弁当の種類のようだった。

死ぬにも、今はいろいろ値段があるらしい。

源治は少し嫌な気分になった。

自動ドアが開いた。

中は明るかった。明るすぎるくらいだった。

床は磨かれていて、受付の机には小さな花が飾ってある。線香の匂いはほとんどしない。代わりに、消毒液と、どこかのホテルみたいな薄い匂いがした。

若い社員が立ち上がった。

黒いスーツ。

白いシャツ。

薄い笑顔。

「いらっしゃいませ」

声は丁寧だった。

だが、源治の顔を見て、ほんの少しだけ目が止まった。

源治はそれを見逃さなかった。

「昔の葬式のことで聞きてえんだけど」

「昔の、でございますか」

「そうだよ」

「ご親族の方でいらっしゃいますか」

「親族じゃねえ」

若い社員は、笑顔を少し固くした。

「申し訳ございません。個人情報の関係がございますので」

「四十年前の死人にも、個人情報があんのか」

若い社員は困った顔をした。

「いえ、その……確認が必要になりますので」

「確認って、誰にすんだよ。死んでるやつにか」

「少々お待ちください」

若い社員は奥を見た。

源治は受付の前に立ったまま、パンフレットを見た。

追加料金。

式場使用料。

お別れ花。

返礼品。

死んだあとまで、人は細かく分けられる。

源治は鼻で笑った。

奥の扉が開いた。

年配の男が出てきた。

背は高くない。痩せていて、髪はきちんと後ろへ撫でつけてある。黒いスーツの着方が、若い社員とは違った。長く着ている人間の着方だった。

男は源治を見て、少し目を細めた。

「……黒崎さんじゃないですか」

源治は男の顔を見た。

「誰だ」

「丸倉です。誠一です」

「丸倉?」

「昔、加藤自動車さんに、うちの車を何度か見てもらっていました。霊柩車も、送迎の車も」

源治はしばらく男の顔を見ていた。

「ああ……丸倉の倅か」

丸倉誠一は、少し笑った。

「倅も、もうこの歳です」

「葬儀屋は老けねえな」

「毎日、老いと死を見てますからね。自分のことは後回しになります」

「うまいこと言いやがる」

源治が言うと、丸倉は柔らかく頭を下げた。

若い社員は、二人のやり取りを神妙な顔で聞いていた。

さっきまで個人情報と言っていた口は、もう動かなかった。

この二人は、客と受付の関係ではない。

もっと古い町の底の方で話している。

若い社員にも、それだけはわかったのだろう。

源治は、もう若い社員を見ていなかった。

丸倉は、若い社員に目で合図をした。

「奥で伺いましょう」

源治は黙ってついて行った。

通されたのは、小さな応接室だった。

壁には葬儀関係の許可証が掛かっている。机の端には、黒い数珠とボールペン。棚には新しいファイルが並び、その奥に、古い帳面らしいものが何冊か立ててあった。

丸倉は湯呑みに茶を入れた。

「粗茶ですが」

「葬儀屋で茶飲むのも変な気分だな」

「皆さん、そうおっしゃいます」

「そうかよ」

源治は茶には手をつけなかった。

丸倉は向かいに座った。

座り方もきちんとしている。背中が曲がらない。昔からそうだった。葬儀屋の倅は、若い頃から人の前で崩れた格好をしない。

源治は思い出した。

源治がろくでもない連中と飲み屋や雀荘をうろついていた頃、丸倉誠一はいつも黒っぽい服を着て、父親の後ろについて歩いていた。葬式の荷物を運び、花輪の札を直し、近所の年寄りに頭を下げていた。

同じ町で育っても、歩く道はずいぶん違う。

「今日はまた、どうなさいました」

丸倉が言った。

言葉は丁寧だった。

同い年のようなものなのに、丸倉は昔から源治に少し丁寧だった。

源治が偉かったわけではない。

悪かったのだ。

源治が一緒にいた連中は、町では少し面倒な連中だった。浜野や片桐や立石。その周りをうろついていた源治も、まともな家の倅からすれば近づきたくない部類だった。

その昔の位置は、今でも消えていない。

「古い葬式のことでな」

「どなたのことでしょう」

「杉浦明って若いのが、昔、橋から落ちて死んだろ」

丸倉の顔が、ほんの少し変わった。

目の奥だけが動いた。

すぐには答えなかった。

「古い話ですね」

「古いから聞いてんだよ」

源治は短く言った。

丸倉は湯呑みを机に置いた。

入口の方で、人の気配がした。さっきの若い社員だろう。扉は閉まっているが、遠くからこの部屋の空気を気にしているのがわかる。

丸倉はその気配を一度だけ見た。

それから源治に向き直った。

「どうして今ごろ、杉浦さんのことを」

源治は鼻を鳴らした。

「夢に出てくんだよ」

「夢、ですか」

「この頃、続けてな。俺にゃ関係ねえはずなんだけどよ。橋だの、若え男だの、変な夢を見る。気味が悪くてしょうがねえ」

丸倉は黙って聞いていた。

「だから、線香ぐらい上げりゃ落ち着くかと思ってよ。墓がわからねえから、お前んとこへ来たんだ」

丸倉は、すぐにはうなずかなかった。

源治が本当のことを言っていないことは、たぶんわかっている。

だが、葬儀屋は、夢や供養という言葉を、簡単には払いのけられない。

それに、相手は源治だった。

丸倉は、静かに言った。

「黒崎さん」

「何だ」

「今の浜野さんの家も、町では顔が利きます」

源治は丸倉を見た。

「おう」

「源治さんも、この町で生きてこられた方ですから、わかりますよね」

「おう。そうだよな」

源治は、わかっているとも、わかっていないとも言わなかった。

ただ返事だけした。

丸倉も、それ以上は押さなかった。

「少々お待ちください」

そう言って立ち上がった。

丸倉は奥へ入っていった。

源治は応接室に一人残された。

壁の時計の音がした。

机の上の数珠は、黒く光っている。窓の外には、白いワゴン車の後ろが見えた。昔の霊柩車のような金色の飾りはない。今は、死も目立たないように運ぶらしい。

少しして、丸倉が古い帳面を持って戻ってきた。

背表紙は擦れていた。角が丸くなり、紙の端が少し茶色い。

「古いものは、まだ紙の台帳で残しています」

「捨てねえのか」

「捨てられませんね」

「死人の帳面だからか」

「生きている方が、後から探しに来ることがありますので」

丸倉は机の上に台帳を置いた。

ゆっくり開く。

紙の匂いがした。

インクの薄くなった文字。

鉛筆で書き足された数字。

赤い線。

寺の名前。

施主の名前。

丸倉の指が、年月のところをたどる。

「昭和……このあたりですね」

ページがめくられるたびに、紙が小さく鳴った。

源治は黙っていた。

入口の向こうの気配も、まだ消えていない。若い社員が、身動き一つ取らずに聞いているようだった。

丸倉の指が止まった。

「ありました」

源治は顔を上げた。

丸倉は台帳を少しこちらへ向けた。

「杉浦明さん。享年二十二」

二十二。

源治は、その数字を見た。

新聞の小さな記事には、若い男性とあった。

台帳には、杉浦明、享年二十二とあった。

ただの事故ではない。

ただの噂でもない。

そこに、一人の男の年が残っていた。

二十二。

源治は、自分が二十二だった頃を思い出そうとした。

何をしていたか、はっきりしない。

酒を飲み、女の尻を追い、金を借り、返さず、社長に怒鳴られ、また同じことをしていた。

杉浦は、その年で止まった。

丸倉は台帳を見ながら続けた。

「この時は、まだ父が表に立っていました。私は若造で、後ろで手伝いをしていただけです」

「それでも覚えてんのか」

「覚えています」

丸倉は台帳から目を離した。

葬儀屋が、覚えていますと言う時は、軽い言葉ではない。

「お母様のことを、よく覚えています」

源治は黙っていた。

応接室の空気が少し重くなった。

窓の外で車が一台、県道を走り抜けた。

その音が遠ざかるまで、丸倉は言葉を続けなかった。

「小さい方でしたが、さらに小さく見えました」

丸倉は静かに言った。

「喪服の肩が余っていて、座っていると、黒い布の中に沈んでいるようでした」

源治は湯呑みを見た。

茶の表面はもう動いていない。

「お顔は静かでした。ただ、静かすぎました」

「その時から言ってたのか」

「何をでしょう」

「事故じゃねえって」

丸倉は少し目を伏せた。

「はっきりと、何度もおっしゃっていました」

「何て」

「あの子は一人で橋へなんか行かない、と」

源治は奥歯を噛んだ。

「水が怖い子だったとも、おっしゃっていました」

丸倉は台帳の端に指を置いたまま言った。

「誰かと一緒だったはずだ。誰かが知っているはずだ。そういう言い方でした」

「町の連中は」

源治が言いかけた。

丸倉はすぐには答えなかった。

葬儀屋の応接室には、線香の匂いはしなかった。

それなのに、源治は、遠い昔の線香の匂いを嗅いだ気がした。

「葬儀の場では、皆さん、黙っておられました」

丸倉は言った。

「黙ってただけか」

「その場では、です」

その場では。

源治は、その言い方で十分だった。

葬式のあと、どこで何を言ったか。

誰が何を聞かないふりをしたか。

誰が噂を飲み込んだか。

丸倉はそこまでは言わない。

言わないのも、また町の言葉だった。

丸倉は、台帳をもう一度見た。

「寺院は……西光寺さんですね。隣町の、坂の上のお寺です」

「西光寺で間違いねえんだな」

「こちらには、そう残っています」

「墓もそこか」

「古い区画だったと思います。ただ、墓地の場所までは、お寺さんで聞いた方が確かです」

源治はうなずいた。

「母親は」

丸倉は一度、源治を見た。

「お母様も、後にうちでお世話しました」

「いつだ」

丸倉は台帳を閉じず、別のページをめくった。

「少々お待ちください」

紙が何枚かめくられた。

丸倉の指が、また止まった。

「明さんの、二十年ほど後ですね」

「二十年」

源治は小さく言った。

二十年。

息子が橋から落ちて死んでから、二十年。

二十年というのは、短くない。

朝が来る。夜が来る。

飯を食う。茶を飲む。市場へ行く。誰かに会う。誰かが死ぬ。祭りの音がする。正月が来る。夏が来る。冬が来る。

それが二十回。

二十年も、あの母親は生きた。

言い続けたのか。

言わなくなったのか。

言わなくなっても、腹の中で燃やし続けたのか。

源治にはわからなかった。

「その時は、私も葬儀の手配をさせていただきました」

「親父さんがやってたんじゃねえのか」

「父はもう、だいぶ退いていました。ほとんど私がやりました」

「そうか」

丸倉は台帳に目を落とした。

「お寺は同じです。西光寺さんです」

「親子で同じ墓か」

「はい。そう残っています」

源治は黙った。

台帳には、名前と日付と寺の名前があるだけだった。

二十年の中身は、どこにも書かれていない。

丸倉は台帳を閉じた。

手のひらをしばらく表紙の上に置いていた。

その手は、源治の手より細かった。

だが、死人の名前を何十年もめくってきた手だった。

「西光寺だな」

源治が言った。

「はい。隣町の坂の上です。古い墓地ですから、寺務所でお尋ねになった方がよろしいでしょう」

「わかった」

源治は立ち上がった。

「世話かけたな」

「いえ」

丸倉も立ち上がった。

源治が扉へ向かうと、丸倉が小さく言った。

「浜野さんには、うちもずいぶんお世話になりました」

源治は足を止めた。

振り返らなかった。

丸倉は続けた。

「父の代からです。大きなお葬式を何度も紹介していただきました。商店会、消防団、町内の古い家。浜野さんの一声で、うちに話が来たこともあります」

源治は黙っていた。

廊下の向こうで、人が動く気配がした。

若い社員か、別の誰かか。

すぐに音は消えた。

「この建物にした時も、近所からいろいろ言われました。霊柩車が出入りするのを嫌がる方もいた。駐車場のことで揉めたこともあります」

丸倉の声は穏やかだった。

だが、穏やかなだけではなかった。

「その時も、浜野さんが間に入ってくださいました」

「そうか」

源治は短く言った。

「あの人がいなかったら、うちはここで続けられなかったかもしれません」

丸倉は少し間を置いた。

「今も、です」

源治は、そこでようやく振り返った。

丸倉は、まっすぐ源治を見ていた。

敵の顔ではない。

だが、味方の顔でもない。

葬儀屋の顔だった。

町の中で商売をして、死人を送り、遺族に頭を下げ、有力者に世話になり、近所の顔色を見ながら、それでも店を続けてきた人間の顔だった。

源治は何も言わなかった。

丸倉の後ろの棚には、新しいファイルが並んでいた。

その横に、今閉じたばかりの古い台帳が置かれている。

昔と今が、同じ棚に立っている。

「源治さんも、この町で生きてこられたんですから」

「おう」

「あまり昔の土を掘り返すと、今の根まで切ることがあります」

「俺は墓を探してるだけだ」

丸倉は少しだけ頭を下げた。

「そう聞いておきます」

信じたわけではない。

疑ったわけでもない。

ただ、そこまでにしておく。

そういう返事だった。

源治は扉を開けた。

廊下の向こうで、若い社員が立っていた。

源治と目が合うと、慌てて頭を下げた。

源治は相手にしなかった。

外へ出ると、昼の光がまぶしかった。

丸倉葬儀社の白い壁は、明るいほど白かった。駐車場の隅に、白いワゴン型の霊柩車が停まっている。昔の黒塗りの車ではない。金色の飾りもない。

葬式も、町も、死に方も、少しずつ形を変えている。

だが、根っこは変わっていない。

源治は車に戻る前に、胸ポケットからレシートを出した。

西光寺。

丸倉葬儀社。

丸倉葬儀社の字に、爪で一本、横線を引いた。

残ったのは、西光寺だけだった。

坂の上の寺。

杉浦明と、その母親が眠っている場所。

源治はレシートを折り直して、胸ポケットに戻した。

車に乗った。

運転席に座ると、荷台の奥で菓子の缶が小さく鳴った。

源治はバックミラーを見た。

缶は見えなかった。

奥へ押し込んだまま、そこにある。

「まだ、行くとは言ってねえぞ」

そう言って、エンジンをかけた。

だが車の向きは、もう隣町の方を向いていた。

源治は、丸倉葬儀社を出てから、しばらく県道を走った。

車の向きは隣町を向いていた。

西光寺。

胸ポケットの中で、レシートの角が胸に当たっている。

まだ行くとは言っていない。

誰にも言っていない。

自分にも言っていない。

それなのに、車はそっちへ向かっていた。

源治はコンビニの駐車場に一度入った。

缶コーヒーを買い、車に戻って、運転席で飲んだ。

甘い。

ぬるい。

うまくもまずくもない。

荷台の方は見なかった。

菓子の缶は、奥に押し込んだままだ。

線香も、蝋燭も、百円ライターも、そこにある。

だが今日は、取り出さなかった。

「寺を聞くだけだ」

源治は言った。

自分でも、また始まったと思った。

聞くだけ。

墓だけ。

線香だけ。

人間は、やることを決める前に、言い訳だけ先に決める。

源治は缶コーヒーを飲み干し、空き缶を助手席の足元に置いた。

エンジンをかける。

右足を少し動かすと、膝の奥が鈍く痛んだ。

「しょうがねえな」

何がしょうがないのかは、自分でもわからなかった。

車はまた、隣町の方へ出た。

西光寺は、隣町の坂の上にあった。

町の中心を抜けると、道は少しずつ細くなった。

新しい建売住宅が並んでいる通りを抜ける。

その先に、古い農家がまだ何軒か残っていた。

畑には、支柱だけが並んでいる。

草の伸びた側溝。

曲がったカーブミラー。

電柱に貼られた古い葬儀社の看板。

道端の地蔵には、色の落ちた赤い前掛けが掛けられていた。

坂に近づくと、竹やぶが見えた。

風が入ると、竹の葉がさわさわ鳴った。

源治は窓を少し開けた。

土の匂いがした。

古い家の庭の匂い。

湿った石垣の匂い。

町は新しくなったような顔をしている。

だが、少し奥へ入ると、昔の町がまだ腹の底に残っている。

新しい家のカーテンの向こうにも、昔からの家の仏壇の横にも、人には見せない古い話がある。

源治はハンドルを握り直した。

坂道に入ると、軽自動車のエンジン音が少し重くなった。

「こんな上に墓作りやがって」

そう言いながら、源治はゆっくり上った。

西光寺の山門は、思ったより低かった。

古い石の門柱に寺の名が彫ってある。

字は苔と汚れで少し読みにくい。

門の脇には掲示板があった。

今月のことば。

供養祭のお知らせ。

墓地使用者へのお願い。

源治はそれを横目で見た。

寺は苦手だった。

仏が怖いわけではない。

生きている人間に、上から見られる気がするのだ。

前に、加藤社長の墓を探して東泉寺へ行った時もそうだった。

寺務所の若い坊主は、源治の顔と服を見て、最初から少し壁を作った。

寺でも、人は相手を見る。

源治はそう思っている。

境内に入ると、砂利が靴の下で鳴った。

右足をかばって歩くと、その音が少しずれる。

正面に本堂があった。

屋根瓦は新しく直されている。

古い寺なのに、屋根だけが妙にきれいだった。

水場には、柄杓が何本も伏せてあった。

風が吹くと、墓地の方から卒塔婆のかすかな音がした。

寺務所の戸を開けると、若い僧が出てきた。

まだ三十前後に見える。

作務衣の上に黒い羽織のようなものを着ている。

源治の顔を見て、少し姿勢を正した。

「はい」

「杉浦って家の墓を探してんだけど」

「杉浦様、でございますか」

「ああ」

「ご親族の方でしょうか」

源治は小さく息を吐いた。

「どこ行ってもそれだな」

「申し訳ございません。墓地のことですので、確認が必要になります」

「黒崎源治ってもんだ。丸倉で聞いて来た」

若い僧の目が、ほんの少し動いた。

それだけで、源治にはわかった。

話は来ている。

「少々お待ちください」

若い僧は奥へ下がった。

源治は寺務所の前に立ったまま、境内を見た。

風で掲示板の紙が少し鳴った。

本堂の屋根瓦が、昼の光を白く返していた。

「早えな」

源治は小さく言った。

自分が丸倉を出て、ここへ来るまでの間に、丸倉は寺へ電話を入れたのだろう。

黒崎という男が来るかもしれない。

杉浦のことで。

町の網は、まだ生きている。

源治が一つ動くと、別の場所で誰かがもう知っている。

若い頃もそうだった。

誰かが喧嘩をすれば、夕方には飲み屋に話が回る。

誰かが女と揉めれば、次の日には工場の休憩所で笑い話になる。

誰かがマッポにチクれば、町から顔を消す。

町は黙っているようで、耳だけはよく動く。

源治は、境内の砂利を見た。

「これが場の流れってやつか」

つぶやいてから、自分で少し嫌になった。

行くとは言っていない。

だが、丸倉が電話を入れ、若い僧が奥へ下がり、住職が出てくる。

人は、自分で決めているようで、半分は場に押されて歩く。

源治は今、その場に乗ってしまっていた。

奥から住職が出てきた。

六十代の終わりか、七十に近い男だった。

痩せているが、背筋は伸びている。

声を出す前から、寺の人間だとわかる立ち方をしていた。

「黒崎さんですね」

源治は顔を上げた。

「もうあれか。ここにも連絡来てたのか」

住職は、静かに頭を下げた。

「丸倉さんからお電話をいただきました」

「早えな」

「葬儀屋さんは、手配が早いのが仕事ですから」

「うまいこと言うな。どいつもこいつも」

住職は少しだけ笑った。

若い僧は、住職の後ろで黙って立っていた。

源治の方を見ているが、目を合わせようとはしない。

「杉浦さんのお墓ですね」

「そうだ」

「ご案内します」

「場所だけ教えてくれりゃいい」

「古い区画ですので、少しわかりにくいかもしれません」

住職は源治の右足をちらりと見た。

「足元も少し悪いです」

「足は最初から悪い」

「では、ゆっくり参りましょう」

住職はそう言って、寺務所の横の小道へ歩き出した。

源治は少し遅れてついて行った。

墓地へ続く道は、本堂の横から奥へ伸びていた。

砂利が細かくなり、ところどころ土が見えている。

水場の脇を通ると、古い花筒がいくつか伏せてあった。

枯れた菊の匂いが少しした。

墓地は思ったより広かった。

新しい墓石の列が手前にあり、その奥に、古い墓がまとまっている。

石の色が違う。

角が欠けている。

文字の中に苔が入り込んでいる。

風が吹くと、卒塔婆がかすかに鳴った。

住職は急がなかった。

源治の足に合わせている。

だが、同情するような顔はしない。

それがかえってありがたかった。

「丸倉から、何て聞いた」

源治が聞いた。

「杉浦さんのお墓をお探しの方が来る、とだけ」

「それだけか」

「はい」

「本当にそれだけか」

住職は少し間を置いた。

「線香を上げたい方だと伺いました」

「線香なんか持って来てねえよ」

「そうでしたか」

「今日は墓を見に来ただけだ」

住職はうなずいた。

「そう伺っております」

源治は住職の横顔を見た。

丸倉も同じようなことを言った。

そう聞いておきます。

寺でも葬儀屋でも、人は正面から問い詰めない。

こちらの言葉を、そのまま預かる。

信じたふりも、疑ったふりもしない。

ただ、そういうことにしておく。

それもまた、この町で生きる作法なのかもしれない。

「浜野さんには、この寺も何度か助けていただきました」

住職が、歩きながら言った。

源治は足を止めなかった。

「またそれか」

「丸倉さんも、同じようなことをおっしゃいましたか」

「おう」

住職は本堂の屋根の方を見た。

「あの屋根を直す時、寄付を集めるのに骨を折ってくださいました」

源治は、さっき見た新しい瓦を思い出した。

「墓地の水道を引いた時も、役所との話をしてくださいました。参道の舗装の時も、町内の方をまとめてくださった」

「ずいぶん世話になってんだな」

「ええ」

住職は否定しなかった。

「寺も、町の中にありますから」

それだけ言って、少し黙った。

杉浦明のことを知っているのか。

浜野のことをどこまで知っているのか。

源治にはわからない。

だが、知らないわけではない。

田辺も、吉村さんも、丸倉も、住職も。

誰も浜野を悪く言い切らない。

世話になった。

助けられた。

町をまとめた。

金を出した。

役所に話をつけた。

どれも本当なのだろう。

そして、その本当が、人の口を重くする。

源治は砂利を踏みながら思った。

吉村さんの声が戻ってくる。

町っていうのは、そういうのが全部混ざってるんだよ。

その通りだ。

良いことと悪いことが、別々に皿へ盛られているわけではない。

一つの鍋に入って、煮えて、匂いまで混ざっている。

源治は、その鍋の中で生きてきた。

墓地の奥へ行くほど、道は狭くなった。

石と石の間に草が生えている。

古い墓石の前には、誰が置いたのかわからない湯呑みが一つ、伏せられていた。

水のない花筒に、枯れた茎だけが刺さっている墓もある。

源治は右足を引きずった。

少し坂になっている。

足の裏に、砂利の硬さが伝わる。

「こっちです」

住職は、古い墓石の列の前で止まった。

墓地の端に近い場所だった。

本堂からは見えない。

水場からも少し遠い。

背の高い木が一本あり、その影が墓石の上に落ちていた。

「杉浦さんは、こちらです」

住職が指した。

古い墓だった。

大きくはない。

石の角は少し丸くなり、正面の字には薄く苔が入っている。

杉浦家之墓。

源治は、その字を見た。

胸の奥が、少し詰まった。

新聞では、若い男性。

葬儀屋の台帳では、杉浦明、享年二十二。

寺では、杉浦家之墓。

ばらばらだったものが、ここで一つになった。

「横にお名前があります」

住職が言った。

源治は墓石の側面に回った。

刻まれた名前の中に、杉浦明の名があった。

その下に、母親の名もあった。

字は、少し浅くなっている。

指でなぞれば、石の冷たさが爪の下まで来そうだった。

源治は、手を出しかけて、やめた。

「ここか」

「はい」

「この母ちゃん、ここに来てたのか」

住職はすぐには答えなかった。

「先代から聞いたことがあります」

「見てねえのか」

「私がこの寺へ戻った頃には、お母様はもう体を悪くされていました。よく来られていた頃のことは、先代が見ておりました」

「何て言ってた」

住職は墓石を見た。

「水を替えて、花を替えて、それから、しばらく動かなかったそうです」

源治は黙った。

「泣いてたのか」

「それは聞いておりません」

「そうか」

「ただ、長かった、と」

風が吹いた。

木の葉が擦れて、乾いた音を立てた。

どこか遠くで、車の音がした。

墓地の中には、ほかに人はいなかった。

長かった。

水を替え、花を替え、動かない。

それだけで十分だった。

事故じゃない。

あの子は一人で橋へなんか行かない。

そう言い続けた女が、ここで黙っていた。

言っても届かないと知った後で、何を墓に向かって言ったのか。

あるいは、何も言わなかったのか。

源治にはわからない。

「黒崎さん」

住職が言った。

「何だ」

「丸倉さんからは、線香を上げたい方が来る、と伺いました」

「だから、持って来てねえって言ったろ」

「はい」

「今日は墓を見に来ただけだ」

「はい。そう伺っております」

同じ言い方だった。

源治は少し笑った。

「お前ら、みんな同じこと言うな」

「そうでしょうか」

「そういうことにしておく、って顔する」

住職は何も言わなかった。

源治は墓石を見た。

「古い墓の前で、古い恨みを起こす人もいます」

住職は静かに言った。

「俺に言ってんのか」

「墓の前では、誰に言っているのか、自分でもわからなくなることがあります」

「説教か」

「いえ」

住職は、少し頭を下げた。

「ただ、お墓は、恨みを置きに来る場所でもありますが、恨みを持ち帰る場所にもなります」

源治は黙った。

説教くさい。

そう思った。

だが、完全に外れているとも思えなかった。

「俺は墓を探してるだけだ」

源治は言った。

「はい」

住職はうなずいた。

「そう伺っております」

源治は、もう何も言わなかった。

住職は少し後ろへ下がった。

源治は杉浦家の墓の前に立った。

線香はない。

花もない。

蝋燭もない。

手ぶらだった。

だが、ここまで来てしまった。

来るつもりはなかった。

聞くだけのつもりだった。

寺を確かめるだけのつもりだった。

それが、丸倉から電話が入り、住職が出てきて、墓地を案内され、気がつけば墓の前に立っている。

これが場の流れというやつか。

源治は思った。

若い頃も、そんなことばかりだった。

ちょっと飲むだけ。

顔を出すだけ。

少し借りるだけ。

送っていくだけ。

話を聞くだけ。

そう言っているうちに、いつの間にか戻れない場所まで行っている。

人間は、自分の足で歩いているようで、半分は場に運ばれている。

源治は墓石を見た。

杉浦明。

石に刻まれた名前は、逃げも隠れもしなかった。

源治はゆっくり手を合わせた。

右足が少し痛んだ。

腰が重い。

手のひらの皺と皺が合わさる音などするはずもないのに、源治には、かすかに何かが鳴ったような気がした。

目は閉じなかった。

墓石を見たまま、心の中で言った。

お前の恨みを晴らしてやりてえ、と言えりゃ格好もつくんだろうがよ。

源治は、心の中で続けた。

この町で生きるってのは、そう簡単じゃねえんだよ。

浜野の家がある。

丸倉がいる。

寺がある。

田辺がいる。

吉村さんがいる。

みんな何かを知っていて、みんな何かに世話になっていて、みんな何かを言わずに生きている。

その中で、正しいことだけを真っすぐ言うのは、思っているよりずっと難しい。

源治は、自分に腹が立った。

墓の前に立ってまで、言い訳をしている。

杉浦明は二十二で死んだ。

母親は二十年、その後を生きた。

それでも源治は、まだ町の顔色を見ている。

情けねえな。

源治は心の中で言った。

だが、手は合わせていた。

何もできない。

何もしないかもしれない。

それでも、ここまで来た。

それだけは、もうなかったことにはできない。

風が吹いた。

木の葉が揺れ、墓石の上の影が少し動いた。

住職は、少し離れた場所で黙って立っていた。

源治は、しばらく手を合わせていた。

それから、ゆっくり頭を下げた。

誰に向かって下げたのか、自分でもわからなかった。

杉浦明にか。

その母親にか。

それとも、四十年以上も黙ってきた町にか。

頭を上げると、墓石の字がさっきより少し近く見えた。

杉浦家之墓。

源治は小さく息を吐いた。

「今日は、これだけだ」

声には出さなかった。

だが、その言葉は胸の中に残った。

その日の夕方、源治は片桐の病室へ電話を入れた。

病院の代表番号にかけ、六階の六〇三を頼んだ。

何度か待たされ、電話口の向こうで、人の声と足音が遠くに混じった。

やがて、片桐が出た。

「……もしもし」

声は、前より細かった。

「俺だ」

「黒崎か」

「ああ」

少し間があった。

片桐は、それだけで何かを察したようだった。

「行ったのか」

源治は煙草を吸いたくなった。

だが、手元にはなかった。

「あったよ」

「……そうか」

「杉浦の墓、あった」

電話の向こうで、片桐の息が小さく乱れた。

「西光寺だった」

「そうか」

「母ちゃんも同じ墓に入ってた」

片桐は何も言わなかった。

源治は、受話器を握り直した。

「線香は上げてねえぞ」

「……え」

「持って行かなかった。花もねえ。蝋燭もねえ。ただ、手ぇ合わせただけだ」

片桐は黙っていた。

「勘違いすんなよ。お前の代わりに行ったわけじゃねえ」

源治は言った。

「お前に頼まれたから、きれいに供養してやったとか、そういう話じゃねえ。俺は坊主じゃねえし、親族でもねえ。お前の罪滅ぼしの使いっ走りでもねえ」

「……わかってる」

「わかってねえよ」

源治は、少し強く言った。

「お前は俺に話して、少し軽くなりたかっただけだ。墓場まで持っていけねえから、俺に半分持たせた。それだけだろ」

片桐は、しばらく返事をしなかった。

電話の向こうで、病院の放送がかすかに流れた。

何を言っているのかは聞き取れなかった。

「そうだな」

片桐が言った。

「そうかもしれねえ」

「そうなんだよ」

源治は言った。

怒鳴るほどの力は出なかった。

「だから、礼なんか言うなよ」

「……ああ」

「俺は、墓があったって知らせただけだ」

「うん」

「杉浦は、そこにいた」

自分で言ってから、源治は少し黙った。

墓石の字が、目の奥に戻ってきた。

杉浦明。

石に刻まれた名前は、逃げも隠れもしなかった。

「それだけだ」

源治は言った。

片桐は長く黙っていた。

それから、かすれた声で言った。

「黒崎」

「何だ」

「俺は、あいつに謝りたかった」

「知らねえよ」

源治はすぐに言った。

「謝りたきゃ、自分で謝れ。夢でも、地獄でも、どこでもいいからよ」

片桐は小さく笑った。

笑ったというより、息が漏れただけだった。

「そうだな」

「ああ」

「そうする」

源治は返事をしなかった。

もう切ろうと思った。

だが、片桐がもう一度言った。

「黒崎」

「何だよ」

「墓、あったんだな」

「あった」

「本当に、あったんだな」

「あったよ」

源治は、少しだけ声を落とした。

「杉浦明って名前で、ちゃんと石に残ってた」

電話の向こうで、片桐が息を吸った。

泣いているのかどうかはわからなかった。

わかりたくもなかった。

「じゃあな」

源治は言った。

「また来るか」

「知らねえ」

「そうか」

「お前が死んだからって、俺が墓を探す義理はねえからな」

片桐は、今度は少しだけ笑った。

「黒崎らしいな」

「うるせえ」

源治は電話を切った。

受話器を置いてから、しばらくその場に立っていた。

窓の外は、もう暗くなりかけていた。

遠くで、救急車の音がした。

それは病院の方へ向かっているのか、遠ざかっているのか、よくわからなかった。

源治は胸ポケットに手をやった。

西光寺と書いたレシートは、まだそこにあった。

丸倉葬儀社の字には、爪で引いた横線が残っている。

もう用は済んだはずだった。

だが、胸の中の重さは、少しも減っていなかった。

返せるものは、何もなかった。

杉浦にも。

杉浦の母親にも。

片桐にも。

加藤社長にも。

森田にも。

返せないものばかりが、源治の中に残っていく。

源治はレシートを丸めようとして、やめた。

捨てるには、まだ早い気がした。

机の上に置く。

それから、荷台の菓子の缶を思い出した。

線香。

蝋燭。

百円ライター。

今日は使わなかった。

それでよかったのかどうかは、わからない。

わからないまま、日が暮れていく。

源治は窓の外を見た。

町の灯りが、一つずつ点きはじめていた。

その灯りの下で、みんな何かを知っていて、何かを知らないふりをして、明日の飯のことを考えている。

それが町だった。

源治は小さく息を吐いた。

「墓場まで持っていけねえ話ってのは、始末が悪いな」

誰に言うでもなく、そう言った。

声は部屋の中で消えた。

それでも、消えないものだけが残った。

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