登場人物
- 清兵衛
- 五之橋のたもとで、夜鳴きそばの屋台を営む男。若いころは「本所の辰」と呼ばれていた。
- 亀吉
- 元こそ泥。清兵衛のもとで、屋台の手伝いをしながら少しずつ商いを覚えている。
- 玄庵
- 町医者。清兵衛の昔を知る、口の固い男。
- 元そば屋
- かつて、そば屋を営んでいた男。店を畳み、再びそばで身を立てる道を探している。
- 病の屋台主
- 病のため、屋台を続けることが難しくなった男。
前回まで
五之橋のたもとで夜鳴きそばの屋台を営む清兵衛は、
三河屋の濡れ米二俵と帳面の食い違いをめぐり、町の者たちから証言を集めた。
その働きによって、ひとりの小僧だけに罪がかぶせられることは免れた。
そして清兵衛の屋台では、事情を抱えた者が人知れず助けを求めるための
「半椀の合図」が使われていた。
はじめに
今では五之橋の清兵衛と呼ばれる男にも、別の名で生きていたころがある。
本所の辰――。
その名を失った夜、辰は何を見て、何を守ったのか。
この第二話では、五之橋で営まれる現在の暮らしと、
清兵衛という名を得ることになった若き日の出来事をたどる。
第一場 五之橋の夜
本所の夜は、道だけを見て歩くことができない。
家並みの向こうに町家の灯が見え、酔客の笑い声まで聞こえている。それでも、ひと筋先へ出ようとしたところに堀が横たわっていれば、橋のある場所まで回らねばならなかった。手を伸ばせば届きそうな屋根も、水を隔てれば思いのほか遠い。
江戸の町は地面の上に築かれているようで、その実、半分は水の上に浮いている。
竪川、横川、小名木川。大小の流れは深川から木場へ、行徳へ、さらにその先の房総へとつながっていた。米も塩も、材木も魚も、朝早くから舟で運ばれてくる。荷と一緒に噂が上り、夜陰に紛れて人が下ることもある。
五之橋は、そのような町の外れにありながら、同時に真ん中でもあった。
西へ戻れば本所の町場、南へ折れれば深川の材木の匂いが鼻に届く。東へ歩けば亀戸の天神筋に出て、北へ上がれば武家屋敷の長い塀が続いている。その高い塀の裏には、へばりつくように裏長屋が並んでいた。
清兵衛が五之橋のたもとに屋台を出すようになったのは、夜鳴きそばを売るのに都合がよかったからばかりではない。
橋を渡る人がいる。荷を運ぶ舟がある。道端で交わされた話が、川を越えて別の町へ流れていく。橋際に立っていれば、町の顔と川の顔の、どちらも眺めることができた。
清兵衛は、そういう場所を選んで商いをしていた。
住まいは五之橋のそばではない。本所錦糸堀の外れ、横川へ抜ける細い道を二つ折れた裏長屋に、六畳ひと間を借りている。
表通りへ出ると、武家屋敷の塀が長く続いていた。昼でも道へ濃い影を落とすほど高く、雨の翌日などは、塀際の土だけがいつまでもぬかるんでいる。ところが、そこからひと筋裏へ入れば、景色はまるで違った。
洗い物の水が板端から溝へ流れ、どこかの家で煮る味噌汁の匂いが漂っている。裸足の子どもが狭い路地を走り抜け、火鉢の灰を払う音に、桶屋の木槌の音が重なる。煮売り屋の呼び声が聞こえたかと思えば、薄い壁の向こうから赤ん坊の泣き声がした。
大屋敷の白壁一枚を隔てて、その日の米を案じる者の暮らしがあった。江戸では、それも珍しいことではない。
清兵衛は、夜の色が空に残っているうちに目を覚ました。
障子を細く開けると、横川の方から湿り気を含んだ風が入り、畳の上を冷たく撫でていった。井戸端では、もう誰かが釣瓶を使っている。縄の軋む音がして、しばらくすると水を桶へ移す音がした。
寝床を畳み、手ぬぐいを肩に掛けて外へ出る。汲み置きの水で顔を洗うと、眠気とともに、昨夜の酒の匂いまで流れていくようだった。
もっとも、清兵衛は酒を飲んではいない。
夜更けに訪ねてきた男の話を聞き、その男が帰ったあとも、しばらく眠らずにいたのである。
部屋へ戻ると、襟元を直し、財布代わりの小さな包みを腰へ入れた。火の始末を確かめてから、音のしないよう戸を閉める。長屋の者たちは起き始めていたが、まだ声を掛け合うほどには朝になっていなかった。
屋台は長屋には置いていない。
五之橋近くの船宿が、脇の物置を貸してくれていた。清兵衛は毎日そこまで歩き、屋台を引き出して火を入れる。商いが終われば、また同じ物置へ戻す。
面倒といえば面倒だったが、屋台を長屋から押していけば、堀に突き当たるたびに橋を探さなければならない。空身なら近い道も、屋台を引けばひどく遠くなる。水路の多い本所では、目に見える近さなど、あまり当てにはならなかった。
清兵衛が長屋を出て最初の角を曲がると、粉屋の戸がもう半分ほど開いていた。
表向きは米を商う店だが、奥に小さな石臼を据え、そば粉も挽いている。店先にはまだ掃き清めたばかりの水気があり、土と米糠の匂いが混じっていた。奥では石臼が回っているらしく、獣が喉を鳴らすような低い音が続いている。
清兵衛が通りかかると、暖簾の内側から若い奉公人が顔を出した。眠そうな目をしているくせに、口だけは朝からよく動く男だった。
「清兵衛さん。今朝は、いつもより少し遅いようで」
若い者は言いながら、清兵衛の顔を覗き込んだ。
「寝坊した」
清兵衛は足を止めたものの、顔色ひとつ変えずに答えた。
若い者は鼻の脇を掻き、そんなはずはないという顔で笑った。
「清兵衛さんが寝坊するなら、明日は竪川の水が逆さに流れますよ。夜中にまた、面倒な客でも来たんじゃありませんか」
「客はみんな面倒なものだ。面倒でなけりゃ、黙ってそばを食って帰る」
「違えねえ。うちの客も、黙って米を買ってくれりゃ楽なんですがね」
そこまで言ったところで、奥から主人の叱る声が飛んだ。
「朝から余計な口を利いてねえで、臼を見てこい」
若い者は首をすくめたが、すぐには引っ込まず、清兵衛へ笑いかけてから暖簾の奥へ姿を消した。
代わって主人が出てきた。五十に近い小柄な男で、眉や睫毛にまで白い粉をかぶっている。手に持った紙袋を一度軽く叩いてから、清兵衛の前へ差し出した。
「昨日頼まれた分です。いつもどおりに挽いたつもりですがね」
清兵衛は袋を受け取ると、まず掌で重みを量った。それから口紐を緩め、指先で粉をひとつまみする。白い粉を親指の腹でゆっくり擦り、鼻へ近づけた。
「少し若いな」
主人の目尻に、細い皺が寄った。
「やはり、わかりますか」
「わからねえようじゃ、夜鳴きはできねえ」
責めるような言い方ではなかった。それでも主人は、白くなった手を前掛けで拭きながら、申し訳なさそうに店の奥を振り返った。
「昨日の雨で、粉の具合がいつもと違いましてね。臼を少し急がせたのが、よくなかったかもしれません」
「悪くはねえよ。今夜のつゆなら、これで釣り合う」
清兵衛が代金を置くと、主人はようやく息をついた。粉の良し悪しだけでなく、使い方まで見てくれる客はありがたい。だが、誤魔化しの利かない客でもあった。
主人は銭を仕舞いかけ、ふと店先から左右の道を確かめた。まだ人通りは少ない。そのことに安心したのか、声をひとつ低くした。
「錦糸堀の方で、また妙な話が出ておりますよ」
清兵衛は結び直した粉袋を小脇へ抱えた。
「あの堀に妙な話がなかった年なんぞ、聞いたことがねえな」
「今度のは、あれです。“おいてけ”というやつで」
話を聞きつけた若い奉公人が、奥から再び顔を出した。主人に睨まれても引っ込まず、石臼を見てきたふりに両手を白くしている。
「昨夜、魚を釣った男がいたそうですよ。帰ろうとしたら、堀の中から“おいてけ、おいてけ”と声がする。男は気味が悪くなって逃げ出したが、家へ着いて魚籠を見たら、中が空っぽだったって話で」
若い者は、いかにも見てきたような調子で言った。
清兵衛はそちらへ顔を向けたが、驚いた様子は見せなかった。
「釣った魚を売って酒にしたなら、女房への言い訳にはちょうどいい。堀の化け物は、亭主より口が堅いからな」
若い者が吹き出した。主人もつられて口元を緩めたものの、その笑みはすぐに消えた。
「ところが、その男が、今朝になっても戻っていないそうです」
軒先から落ちた雫が、店の前の土に小さな穴を開けていた。
清兵衛はそこへ一度目を落とした。
「酒を飲む男か」
「人並みには。ただ、酔いつぶれて朝まで寝るようなことは、めったになかったそうで」
「女は」
「それも、ないとは言い切れませんが……」
主人は言葉を濁した。人ひとりが消えたというには、まだ早すぎる。だが、単なる朝帰りと笑うには、何かが喉に引っかかっている。そんな顔だった。
清兵衛は、いなくなった男の名も住まいも尋ねなかった。
「帰ってきたら、化け物の顔を聞いておけ」
それだけを言い残し、粉屋を離れた。
表通りへは出ず、武家屋敷の塀に沿う細道を進んだ。右手には人の背丈をはるかに越す黒板塀、左手には軒を触れ合わせるような小店が続いている。油屋の前には空の樽が並び、古手屋の軒からは色の褪せた袷が下がっていた。煮豆を売る婆は、火鉢の炭を竹箸で崩しながら、大あくびをしている。
朝の町は、まだ本気で動き出してはいない。
戸が開き、火が起こされ、人の息が少しずつ通りへ漏れ始めている。夜と昼との間にだけ見せる、気の緩んだ顔であった。
七味屋は、その細道が折れる角に店を出していた。
店といっても、軒下に大きな箱を据え、仕切りの中へ小袋や小壺を並べただけのものだった。唐辛子、煎った胡麻、干した陳皮、山椒、麻の実。材料は同じでも、挽き方と合わせ方ひとつで、辛みも香りも変わる。
親父は清兵衛の姿を見ると、挨拶より先に一枚の紙を広げた。
「今朝も、いつもの合わせでよろしいですかい」
「ああ。ただし、山椒を先に嗅がせろ」
「旦那には隠せねえな。今朝のは、少し鼻に立つんですよ」
親父は小壺の蓋を開け、清兵衛の前へ差し出した。
清兵衛は直接鼻を寄せず、手で香りを扇いだ。山椒の青い匂いが、湿った朝の空気を細く裂いた。
「悪くはねえが、これを入れすぎたら、そばを食ってるのか薬を舐めてるのかわからなくなる」
「旦那のつゆは静かですからね。七味の方が騒ぐと、たしかに邪魔になる」
親父はそう言いながら、材料を少しずつ紙の上へ落としていった。
赤い唐辛子のそばへ黒胡麻が散り、刻んだ陳皮の黄が交じる。小さな匙が紙の上を行き来するたび、眠っていた香りがひとつずつ起きた。最後に山椒を加えて混ぜると、店先だけ空気の色が変わったように思われた。
清兵衛は出来上がったものをひと嗅ぎし、首をわずかに傾けた。
「軽いな」
親父は待っていたように笑った。
「やっぱり、そう思いますかい」
「山椒を、あと半つまみ」
「一つまみではなく?」
「一つまみ入れたら、客はそばの味を忘れて、おめえの顔だけ覚えて帰る」
「そいつはいけねえ。あたしの顔は、食後に残すには脂が強すぎる」
親父は指先でごく少量の山椒を加え、紙を器用に折った。
清兵衛が包みを受け取ったとき、通りの向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。下駄を引っかけるような走り方は、姿を見るまでもない。
「旦那、旦那。お待ちを」
亀吉が、袂をばたつかせながら走ってきた。額には薄く汗がにじみ、片方の鼻緒が今にも切れそうになっている。
清兵衛は、すぐには振り返らなかった。
「朝から走るな。埃が七味に入る」
亀吉は店先まで来ると、膝へ手をついて息を整えた。元はこそ泥で、まだ若い。口も手も人より先に出る男だったが、清兵衛の屋台を手伝うようになってからは、その素早さを少しずつ別のことへ使い始めていた。
もっとも、朝寝の癖までは、まだ抜けていない。
「走らなきゃ、間に合わねえと思いまして」
息の間から、亀吉がようやく言った。
「間に合わなくしたのは誰だ」
「それは、その……夜中まで草履の鼻緒を直しておりまして」
「今にも切れそうだがな」
清兵衛に鼻緒を見られ、亀吉は片足をそっと後ろへ隠した。
七味屋の親父が、笑いを噛み殺しながら仕事箱の蓋を閉める。清兵衛はその親父へ代金を渡してから、亀吉の両手を見た。
「葱はどうした」
亀吉の顔に浮かんでいた笑いが止まった。
「これから、横川までひとっ走りして……」
「葱を仕入れてから来いと言ったはずだ」
「けど、旦那がもう出ちまったんじゃねえかと思って、先に顔だけでも見せた方が――」
「おめえの顔を刻んで、そばへ載せるわけにはいかねえ」
七味屋の親父が、とうとう声を立てて笑った。
「亀よ、葱を軽く見るな。そばに葱がなけりゃ、女房のいねえ長屋みたいなもんだ。暮らせねえことはないが、どうにも寒々しい」
「うちには女房どころか、まともな畳もありゃしねえ」
「だから、せめて葱ぐらいは忘れるな」
親父にまで言われ、亀吉は唇を尖らせた。
清兵衛は笑わず、横川の方角へ顎をしゃくった。
「葱屋は橋の手前だ。昨日の売れ残りを掴まされるなよ。根元を持って、締まりを見ろ。白いところが痩せていて、青いところばかり伸びた束は避けろ」
「へい。白いところを見て、青いところの多いのは駄目、と」
「値を聞く前に手を出すな。いったん掴めば、向こうは買うものと思う」
「へい」
「それから、安いというだけで飛びつくな。安いものには、安くしなけりゃならねえ訳がある」
亀吉は返事をしかけたまま、清兵衛の顔を見た。何かを思い出したように、目が少し細くなる。
「旦那。それは本当に、葱の話なんですかい」
清兵衛は答えず、七味の包みを懐へ入れた。
七味屋の親父は二人の顔を見比べ、今度は声を立てずに肩だけを揺らしている。
「日の高くなる前に行け」
「へいへい。白いところを見て、値を聞いて、安物には気をつける。葱一本買うのも、えらく難しいもんだ」
亀吉はそうぼやきながら横川の方へ駆け出した。
ただし、十歩ほど進んだところで七味屋を振り返り、今度は少し足音を抑えて走っていった。言われたことを忘れているようで、妙なところだけは覚えている。
清兵衛はその後ろ姿をしばらく眺め、それから五之橋へ向かった。
道は、どこまでも真っすぐ続いているわけではない。
堀に突き当たれば曲がり、橋がなければ戻る。目の前に火の見櫓が見えていても、渡る場所をひとつ間違えれば、倍ほど歩かされることもあった。
初めて来た者は、江戸は広いと言う。
少し住んだ者は、どこへ行っても人家が絶えぬのを見て、江戸は狭いと言い直す。
だが、川とともに暮らす者は、広いとも狭いとも簡単には言わない。
水があり、橋があり、渡しがある。その一方には、舟でも渡れず、橋も架からぬ場所がある。向こう岸が見えるからといって、そこへ行けるとは限らない。
人の暮らしも、それと似ていた。
五之橋近くの船宿へ着くころには、朝の光が町の隅まで届いていた。
船宿の裏手では、眠そうな船頭が桟橋へ腰を下ろし、欠伸をしながら艪を拭いている。深川の方から戻ってきた小舟が岸へ寄せられ、濡れた縄が勢いよく放られた。縄は黒い蛇のように宙で身をくねらせ、湿った音を立てて杭のそばへ落ちた。
清兵衛に気づいた船頭が、手を止めた。
「清兵衛さん。今夜も出すんですかい」
その問いがあまりに間の抜けたものだったので、清兵衛は桟橋と船頭を順に眺めた。
「そば屋がそばを出さなきゃ、夜の橋際で何をしていろというんだ」
「旦那なら、黙って川を見ているだけで銭になりそうですけどね。ため息なんざ、毎晩ずいぶん出してなさる」
船頭は言ってから、少し口が過ぎたと思ったらしい。清兵衛と目が合うと、急に熱心な顔をして縄を結び直し始めた。
「物置なら、もう開けてあります。昨夜も鼠は入っておりません。あっしが、ちゃんと見ておきましたから」
「鼠が入った方が、まだ静かでいい」
「そりゃ、あんまりだ」
清兵衛は桟橋を離れ、船宿脇の物置へ回った。
開け放たれた戸の奥に、屋台が収まっている。大きくもなければ、目を引く飾りがあるわけでもない。ただ、長く使われた木肌には毎日の手入れが行き届き、車輪の軸には新しい油が差してあった。提灯は乾いた布に包まれ、丼は欠けぬよう重ねて仕舞われている。
屋台は商いの道具である。
だが、清兵衛にとっては、それだけではなかった。
ここには腹を空かせた者が立ち寄る。体を温めたい船頭が来る。酔いを醒ましたい職人も、家へ帰りたくない手代も来る。一杯のそばが茹で上がるまでなら、普段は口にしないことを話す者もいた。
清兵衛は柄を握り、屋台を物置からゆっくり引き出した。
油を差したばかりの車輪が、低く、ひと声だけ鳴った。
五之橋のたもとへ据えれば、竪川を行き交う舟が見える。橋を渡る人の顔も見える。深川へ下る者、亀戸へ向かう者、本所へ戻る者――行き先が違えば、同じ橋を渡る足にも、それぞれ違った重さがあった。
仕事へ急ぐ足取りは、前だけを見ている。
追われる者は、橋の半ばで一度振り返る。
道に迷った者は、川面よりも橋の名を見る。懐に金を持つ者は、知らず知らず片方の肘を締め、失った者は、用もないのに何度も懐へ手をやった。
清兵衛が見ているのは、顔ばかりではない。
もっとも、目に留めたことを、その場で口にするような男でもなかった。
日が傾くまでに、屋台の仕込みはひと通り整った。
鍋の中では昼から寝かせておいたつゆが、弱い火に温められている。醤油の角が熱でほどけ、出汁の匂いと混じりながら、屋台の狭い内側に満ちていった。七味の包みは湿気を避けて棚の隅へ置き、丼と箸を揃える。
亀吉も、どうにか日のあるうちに戻ってきた。
両腕へ抱えた葱の束を、ひと仕事終えたような顔で差し出したが、清兵衛は受け取るなり根元を確かめた。白いところがやや短く、葉先にも少し元気がない。
清兵衛の眉が、ほんのわずかに動いた。
亀吉はそれを見逃さなかった。
「先に言っておきますけどね。白いところの長い束は、これより六文も高かったんです」
「だから、こっちを買ったのか」
「値を聞く前には触ってませんよ。根元だって見ました。旦那の言いつけどおりに、きっちりと」
得意げに話していた亀吉の声は、清兵衛が葱の葉を一枚めくるのを見て、次第に小さくなった。
「見たうえで、これを選んだんです。何しろ、銭にも限りがありますからね。少しくらい青いところが多くたって、葱は葱でしょう」
清兵衛は叱らず、まな板を引き寄せた。包丁の刃を布でひと拭いしてから、葱を横たえる。
「高いものを買えとは言ってねえ」
「それじゃ、どうすりゃよかったんで」
「同じ値の束を、もう少し見比べりゃよかった。店の親父が急かしても、葱は逃げねえ」
白いところには薄く刃を入れ、香りの強い青いところは、それより細かく刻んでいく。調子よく切り進む包丁の下で、不揃いだった葱が、少しずつ同じ姿に整えられていった。
亀吉は屋台の端に手をつき、その手元を黙って見ていた。
しばらくして、白と青の混じった刻み葱を覗き込み、感心したように鼻を鳴らした。
「こうしてしまえば、青いところが多いのも、それほどわかりませんね」
「青い方は香りが強い。細く刻めば、少ない白を補える」
「へえ。葱にも逃げ道があるんですねえ」
清兵衛の包丁が、一度だけ止まった。
「人にもあるさ」
「だったら、なるべく楽な逃げ道を覚えたいもんで」
「逃げ道ばかり探しているやつは、しまいに橋のない堀へ出る」
亀吉は何か言い返そうと口を開いたが、清兵衛が再び葱を刻み始めたので、そのまま黙った。
包丁がまな板を叩く音の向こうで、五之橋を渡る人の数が増えていた。
一日の仕事を終え、肩へ道具箱を担いだ職人が通る。深川から戻ってきた船頭は、濡れた足袋のまま欄干へ寄りかかり、顔見知りと立ち話をしている。亀戸の方へ急ぐ女は、小さな風呂敷を胸に抱えていた。橋の真ん中では子どもが川を覗き込み、母親に袖を引かれている。
夕闇が川面から上がり、家々の軒下に入り始める。
清兵衛は火箸で炭を直した。熾った炭が崩れると、赤い火が息を吹き返し、鍋の底から小さな泡が上がった。
やがて提灯にも火が入り、屋台の布に染め抜かれた「そば」の字が、宵闇の中へぼんやりと浮かび上がった。
出汁の匂いが、川から吹く湿った風に乗る。
通り過ぎかけた職人が一度だけ足を緩めた。船頭のひとりが、今夜最初の客になろうかと思案するように、屋台の方へ顔を向ける。亀吉は丼を並べながら、葱の入った小鉢を目の届くところへ置いた。
五之橋の上を、人が渡っていく。
町へ帰る者もいれば、町から消えようとする者もいる。
清兵衛は鍋から立つ湯気の向こうに、行き交う人影を静かに見ていた。
五之橋の夜は、まだ始まったばかりだった。
第二場 奥座敷へ渡る舟
五之橋の夜は、すぐには深くならない。
夕暮れは、まず川面から色を失わせていく。昼のあいだ水に散っていた光が薄くなり、岸辺の杭や係留された小舟の影が、ひとつながりの黒い帯へ変わっていった。
やがて橋の上に提灯がひとつ灯り、それを追うように、向こう岸でも淡い明かりが揺れ始める。
日の名残があるうちは、通る者にも昼の匂いが残っていた。道具箱を肩にした職人、濡れた足袋で歩く船頭、店の使いを終えた手代や小僧。深川から戻ってきた女たちは、売れ残った浅蜊や青物を籠の底へ寄せ、少し軽くなった荷を抱えて橋を渡っていく。
夜が町の上へきちんと腰を下ろすころには、人の顔つきも変わっていた。
急ぐ理由を隠す者がいる。帰る家があるのに、橋の途中で足を止める者もいる。誰かに見られぬよう笠を深くかぶり、川面ばかり眺めて歩く者もあった。
昼の顔が引っ込み、夜にだけ見せる顔が現れる。
清兵衛の屋台には、そのような者たちがぽつぽつと寄り始めていた。
鍋から立つ湯気には、昼のうちから寝かせておいたつゆの匂いが混じっている。提灯の火に照らされた湯気は、屋台の軒先で一度白く膨らみ、川から吹く風にほどかれていった。
亀吉は温めた丼を布巾でつかみ、刻み葱を載せ、箸を添える。
朝に買ってきた葱である。白いところの短い束を選んだことは、まだ少し気になっているらしい。客の丼へ葱を入れるたび、清兵衛に見られていないか、ちらちらと横目を使っていた。
そばを扱う手つきも、まだ危なっかしい。
湯を切るとなれば肩へ余計な力が入り、客に急かされれば返事ばかりが先に出る。客の顔色に気を取られて、鍋の鳴る音を聞き逃すこともあった。それでも、清兵衛の屋台へ来たばかりのころに比べれば、丼をひっくり返さなくなっただけでも進歩ではある。
浅蜊売りのおかみが屋台の端へ腰を寄せ、出された丼を両手で包んだ。
一日のあいだ冷たい水へ手を入れていたためか、節の太い指先が赤くなっている。温かな丼へ掌を当てるだけでも気持ちがよいらしく、すぐには箸を取らなかった。
やがて、つゆをひと口すすったところで、片方の眉を上げた。
「亀。今日は、ずいぶん湯が熱いじゃないか」
亀吉は、褒められたものと思ったらしい。胸を少し張り、布巾を肩へ掛け直した。
「そばってものは、熱い方がうまいでしょう」
「ものには加減があるんだよ。これじゃ、そばより先に舌が逃げちまう」
おかみは口を開け、熱を逃がすように息を吐いた。
亀吉は慌てて清兵衛を見た。
清兵衛は湯気の向こうに立ち、何も言わない。鍋の蓋を指二本ほどずらし、立ち上る蒸気と火の強さを見ているだけだった。
叱られるよりも、その方が亀吉にはこたえる。
何が悪かったのかを自分で考えろ、と背中で言われているような気がするのである。
亀吉は舌打ちしかけ、浅蜊売りのおかみが見ていることに気づいて飲み込んだ。次の丼を湯へ入れようとして、今度はひと呼吸待つ。柄杓で湯をすくい、煮立ち方を確かめてから丼を沈めた。
おかみは、その様子を丼越しに見ていた。
「少しは覚えるじゃないか」
亀吉は照れたのを隠すように、棚の箸を揃え直した。
「おかみさんまで、旦那みてえなことを言わねえでくださいよ」
「旦那のそばで働いてるなら、この町じゅうが師匠みたいなもんさ。客に出したものは、客の舌が一番よく知ってる」
返す言葉が見つからず、亀吉は鍋へ向き直った。
そのとき、橋の下を一艘の舟が通った。
艪の音は、ほとんど聞こえなかった。水を押すたび、川面に細長い筋が生まれ、屋台の灯を映した波がゆっくりと崩れていく。
清兵衛が顔を上げた。
舟はそのまま下流へ行き過ぎるように見えた。ところが、橋を抜けてしばらくすると、岸寄りで静かに向きを変えた。艫を振り、五之橋のたもとにある暗がりへ入ってくる。
乗っているのは、弥八だった。
年は四十を少し越えている。日に焼けた顔には深い皺があり、川風に晒された手は、濡れた縄のように節くれ立っていた。
弥八は、ただ客を運ぶばかりの船頭ではない。本所と深川の川筋を知り尽くし、どの蔵へ何が入り、どの荷が夜になってから動くのかまで、舟の上から見て暮らしている。
少し前、三河屋の濡れ米をめぐって、店の小僧ひとりへ罪が押しつけられそうになったことがあった。そのとき弥八は、雨の夜に川筋を通った舟と、濡れた米俵が運び込まれた時刻について、清兵衛へ知っていることを話した。
あれがなければ、声の小さい小僧の言い分は、帳面と店の都合に押し潰されていただろう。
もっとも、弥八は自分が小僧を救ったなどとは思っていない。清兵衛に尋ねられたことへ、見たとおりを答えただけである。
川のことも町のこともよく知っているが、知ったことを面白半分に触れ回る男ではなかった。何でも見える場所にいるからこそ、見なかったことにする術も心得ている。
弥八は川岸の杭へ舟を寄せた。
流れを読みながら艪を小さく返し、舟べりが石段へ触れる寸前で止める。投げた縄が杭へ絡み、舟が二度ほど小さく揺れた。
石段を上がって屋台の明かりへ入ると、弥八は笠の縁から一滴落ちた雫を手の甲で拭った。清兵衛へ直接声を掛けることはせず、川を眺めたまま、客の誰に言うでもない調子で口を開いた。
「今夜は、川の水が静かでさ」
それだけを言って、黙った。
清兵衛は、茹で上がったそばを丼へ移した。つゆを張り、葱を載せ、待っていた職人の前へ出す。一連の手を終えても、すぐには弥八を見なかった。
鍋の縁から落ちた湯が、火へ触れて小さく鳴った。
「静かな水ほど、底で何か動いてる」
ようやく返した声も、普段と変わらない。
弥八は笑わなかった。提灯の明かりが届かぬ川面へ目を向けたまま、低く応じた。
「そういう晩も、ありますな」
二人の言葉を、浅蜊売りのおかみが丼の中へ聞き流している。
亀吉も何かを察したらしい。弥八と清兵衛を交互に見たものの、口を挟むことはしなかった。
以前なら、「何かあったんですかい」と真っ先に聞いていただろう。清兵衛のそばにいるうち、聞いてよいことと、聞かずに見ておくことがあると、少しずつ覚え始めていた。
清兵衛は葱の小鉢を、亀吉の右手が届きやすいところへ寄せた。続いて、温めておいた丼を三つ、棚の手前へ並べる。
その手元を見ていた亀吉の顔に、わずかな不安が浮かんだ。
「亀」
「へい」
亀吉は返事をしながら、背筋を伸ばした。
「半刻、火を落とすな」
屋台の中で燃える炭が、ぱちりと小さく爆ぜた。
亀吉はその火と清兵衛の顔を見比べた。言われた意味を呑み込むまでに少し時間がかかったらしく、目が次第に大きくなっていく。
「半刻って……あっしが、ひとりでやるんですかい」
「他に誰がいる」
「いや、いますよ。旦那が」
「俺は出る」
清兵衛は、平らな声で言った。
亀吉は思わず弥八へ目を向けた。
弥八は何も知らないような顔で、岸に繋いだ舟の縄を見ている。浅蜊売りのおかみは丼を傾け、残ったつゆの深さを確かめていた。
聞こえないふりをする者は、たいていよく聞いている。
清兵衛は屋台の奥から銭箱を取り、亀吉の前へ置いた。箱の底で銭が重なり、乾いた音を立てる。
「釣りを間違えるな。酒は出すな。揉め事が起きたら、まず湯を見ろ」
亀吉は銭箱へ伸ばしかけた手を止めた。
「湯を見るんですかい」
「鍋が煮立っているときに、人の揉め事へ首を突っ込むな。先に火を落とせ。騒ぎを眺めているうちに湯を噴かせたら、客も屋台も台なしになる」
亀吉は鍋を見た。
白い湯気の向こうで湯が揺れ、火に炙られた鍋肌が鈍く光っている。町の騒ぎに目を奪われれば、その間にも火は燃え続ける。言われてみれば当たり前だが、亀吉には、まだ身についていない当たり前だった。
忘れぬよう胸の中へ押し込む顔で、ひとつ頷いた。
それでも不安は消えないらしく、銭箱へ手を載せたまま尋ねた。
「客が、銭を払わずに行こうとしたら」
「追うな。顔を覚えろ」
「逃げられても?」
「屋台を空にして追えば、取られるのは一杯分じゃ済まねえ」
清兵衛は鍋の脇に置いた柄杓の向きを直した。亀吉が使いやすいよう、柄を外側へ向けている。
「つゆが薄いと言われたら、どうします」
「詫びて作り直せ」
「濃いと言われたら」
「水で薄めて誤魔化すな。それも作り直せ」
亀吉は神妙に頷き、心の中で順を追っているらしい。唇がかすかに動いていた。
清兵衛は、そこで問いを変えた。
「腹を空かせた子どもが、屋台の前に立っていたら」
亀吉の唇が止まった。
銭の扱いや、そばの作り直しなら答えを覚えればよい。だが、今度の問いには決まった答えが見つからない。
清兵衛も、すぐには助け舟を出さなかった。
鍋の底で湯が静かに鳴っている。橋の上では、酔った男たちが何かを言い合い、ひとしきり笑いながら通り過ぎていった。その声が遠ざかると、深川の方から流れてくる湿った材木の匂いが、急に濃く感じられた。
亀吉は銭箱から手を離し、屋台の外へ目を向けた。
実際にそこへ子どもが立っているところを思い浮かべているのだろう。空腹だからと、誰にでもそばを出してよいものか。家を飛び出した子なら、親が探しているかもしれない。誰かに物乞いをさせられていることもある。
やがて、おそるおそる口を開いた。
「……まず、聞きます」
「何をだ」
「家がどこなのか。ひとりで来たのか」
清兵衛は黙って続きを待った。
「それから、その……勝手に食わせていい子なのか、見ます。親が探してるかもしれねえし、後ろで誰かが見張ってるかもしれねえ」
清兵衛は亀吉の顔をしばらく見ていた。
「それでいい」
たったひと言だったが、亀吉の肩から力が抜けた。
ほっとした顔を見られまいと、すぐに鍋へ向き直る。清兵衛に認められたと喜んでいると、その次には必ず、まだ考えていなかったことを落とされるからである。
清兵衛は懐へ手を入れ、小さな布包みを取り出した。
使い込まれて色の褪せた包みを解くと、いくらかの銭が入っている。清兵衛は自分の銭箱とは分けたまま、それを亀吉の手元へ置いた。
「どうにもならなけりゃ、ここから出せ」
亀吉は銭よりも、清兵衛の顔を見た。
「使ってもいいんですかい」
「そのための銭だ。ただし、施しをするような顔はするな」
清兵衛は、包みを指先で亀吉の方へ押した。
「そばは食わせるもんだ。恵んでやるもんじゃねえ」
川風が提灯を揺らし、二人のあいだを明かりの影が往復した。
亀吉は、すぐには銭へ触れなかった。
わずかな金ではある。それでも、自分には銭より重いものを預けられたように思えたらしい。軽口を返すこともなく、やがて布包みを両手で受け取り、銭箱の脇へ置いた。
「へい」
今度の返事は、少し低かった。
清兵衛は手ぬぐいで手を拭い、着物の袖を直した。屋台を離れるときにも、仕草が慌ただしくなることはない。火を確かめ、包丁を伏せ、つゆの入った器へ蓋をする。
急いでいるようには見えないのに、弥八が川岸へ戻るころには、すでに出る支度を終えていた。
屋台の外へ出た清兵衛は、提灯の火を一度だけ見上げた。
「火を見てろ」
亀吉は、柄杓を握ったまま頷いた。
「へい」
いつものような軽口はなかった。
清兵衛は屋台を離れ、川岸へ続く石段を下りた。
石には夜露が降り始めていた。苔のついた縁を避け、一段ずつ足を置く。足袋の底から、昼の熱を失った石の冷たさが伝わってきた。
舟は、岸すれすれへ寄せてある。
先に乗った弥八が、片足を踏ん張って船体を安定させた。清兵衛へ手を差し出したが、清兵衛はその手を借りず、舟べりへ静かに足を掛けた。
体重を受けた船体が、わずかに沈む。
その周りから丸い波が広がり、川面に映っていた屋台の明かりを細かく揺らした。
橋のたもとでは、亀吉がこちらを見ていた。
鍋を見ていろと言われたのだから、見送りなどしている場合ではない。そう思いながらも、どうしても目が舟を追ってしまう。そんな顔である。
清兵衛は振り返らなかった。
弥八が縄を解き、艪を取った。
大きく水を掻くことはせず、流れへ舟を乗せるように、ゆっくりと岸を離れる。舟べりと石段との隙間が少しずつ広がり、そのあいだへ黒い水が入ってきた。
五之橋の灯が遠ざかる。
橋を渡る足音も、屋台の前で交わされる声も、水を隔てると急に薄くなった。代わりに、舟板を撫でる水の音と、艪杭が軋む音が近くなる。
夜の川は、昼とは違う顔を持っていた。
昼の川は荷を運ぶ。米俵、材木、炭、塩、魚。船頭は声を張り、荷役の者は汗を拭う。岸から岸へ掛け声が飛び、川面には櫂や艪の跡が幾筋も残る。
だが、夜の川は人の声を飲む。
口にしたくないことを、言わずに済ませてくれる。人目を避けたい者を、表通りからは見えぬ場所へ運ぶ。武家も町人も、暗い舟の上では似たように顔を伏せた。
月が出ていれば、顔は見える。
それでも、見えたものを見なかったことにできるのが、夜の川であった。
弥八は黙って艪を押していた。
片足を引き、腰を落として水を捉える。艪を返すたび、濡れた木が月明かりを短く弾いた。力任せに漕いではいないが、舟は竪川を滑るように進んでいく。
清兵衛も口を開かなかった。
両岸の家々から、障子越しの細い灯が漏れている。戸口に人影が見える場所もあったが、夜の舟へ気づいても、すぐに家の中へ顔を戻した。
用のない舟をいつまでも眺めるのは、江戸では利口なことではない。
ひとつ目の橋が近づいた。
弥八は艪の角度を変え、橋脚から離れた暗いところへ舟を導いた。頭上を橋桁が覆うと、水面に落ちた影が舟の上を通り過ぎる。
月明かりが遮られた短い間、清兵衛の顔も弥八の背も、闇の中へ沈んだ。
「錦糸堀で、人がひとり消えたそうだ」
清兵衛の声が、橋の下で低く響いた。
弥八は艪を止めなかった。
「魚籠の話ですかい」
水を押す音のあと、少し遅れて返事が来た。
「知っているのか」
「川の者は、魚の話には耳が早いんで」
舟が橋の影を抜けた。月の光が戻り、弥八の横顔が薄く浮かび上がる。
「人の話にはどうだ」
清兵衛が問うと、弥八は口の端を少しだけ動かした。
「聞こえた分だけで」
それ以上、清兵衛は問い詰めなかった。
弥八は何も言わず、艪を押し続けた。話すつもりがあるなら、自分から話す。話さないと決めたことを無理に聞いても、この男の口は開かない。
二つ目の橋が見え始めたころ、弥八の方から声を落とした。
「消えた男ですがね。どうも、ただの釣り好きじゃねえようです」
清兵衛は川面へ目を向けたまま聞いている。
舟の脇を、水に浮いた木片がひとつ流れていった。橋の方から来た影へ入り、すぐに見えなくなる。
「どこの筋だ」
「小名木川で、荷札をいじる連中がいるでしょう。あの辺りと、少し縁があるとか」
舟は二つ目の橋の下へ入った。
弥八の声が橋桁へ当たり、わずかに形を変えて戻ってくる。
「もっとも、まだ噂の域を出ません」
「その噂は、どこから流れてきた」
「深川の炭問屋の裏口からです」
橋の外へ出ると、月明かりが舟板の上へ戻った。
「今夜の奥座敷で、その話が出るのか」
「たぶん」
弥八は短く答え、それきり黙った。
舟は竪川から深川の方へ折れた。
水の匂いに、木場の匂いが混じり始める。
水を吸った材木、古い縄、酒の染みた樽、炭の粉。ひとつひとつは強くないのに、重なると深川にしかない匂いになった。
夜になっても、深川はどこかで働いている。
閉じた戸の向こうで荷が動き、帳場では銭が数えられる。表の商いが終わってから開く裏口もあり、誰かを待つ舟が、灯を消して岸辺に浮かんでいる。
やがて弥八は、表通りから見えない細い入り堀へ舟を入れた。
両側の建物が水際まで迫り、月明かりが届きにくくなる。突き当たりに、小さな船着きがあった。
料理屋の裏口である。
表へ回れば、軒提灯の灯る立派な構えがあり、座敷からは三味線の音が漏れている。客は酒を飲み、女中が膳を運び、近くを通る者は、ごく普通の料理屋だと思うだろう。
だが、裏の船着きは表の顔とは違った。
戸は人目につかぬよう低く造られ、外へ漏れぬほどに灯が絞られている。水に近い板場には、履物の音を吸わせるため、古い筵が重ねて敷かれていた。
弥八が舟を寄せると、戸の内側で人の動く気配がした。
音もなく戸が開き、若い男がひとり姿を現した。地味な着物を着て、帯にも何ひとつ目立つものがない。それでも、料理屋の下働きではないことは、舟を確かめる目つきを見ればわかった。
男は弥八と清兵衛の顔を見た。
何も尋ねず、何も告げず、舟を降りる場所だけを半歩空ける。
清兵衛は舟べりへ手を添え、板場へ上がった。
若い男が頭を下げる。
名乗ることはなく、清兵衛も名を呼ばなかった。
そういう場所だった。
戸をくぐると、若い男は足元を照らす小さな行灯を持ち、細い廊下を先に立った。
料理屋の表の賑わいが、壁一枚向こうから聞こえてくる。女の笑い声があり、盃の触れ合う音がある。三味線が調子を変えると、それに合わせて手拍子まで起こった。
ところが、清兵衛の歩く廊下には人の姿がない。
香の匂いが薄く漂い、行灯の明かりが磨かれた板へ細長く映っている。表の賑わいが近いからこそ、こちら側の静けさがいっそう深く感じられた。
廊下の突き当たりで、若い男が立ち止まった。
膝をつき、襖を静かに開く。
座敷には、すでに三人の男がいた。
正面に座っているのは侍である。
年は四十前後。派手な身なりではないが、着物の生地にも、脇差の拵えにも、町侍とは違うものがあった。以前、清兵衛の屋台へひとりで現れ、そばを半分だけ残して帰った男である。
残した半椀は、食い残しではなかった。
人目のある場所で助けを求めることも、名を呼ぶこともできぬ者が、清兵衛へ用向きを知らせる合図だった。侍はその夜、三河屋の濡れ米をめぐる裏の動きを清兵衛へ伝え、小僧ひとりに罪をかぶせて事を収めようとする者がいることを知らせた。
どこの役目にある男なのか、清兵衛は尋ねていない。
侍も、自分から明かしたことはなかった。
残る二人は、座敷の隅に控えていた。
影のような男たちである。町へ出れば人混みへ紛れてしまいそうな着物を着て、体の重さを感じさせぬ座り方をしている。
目立たない。
だが、そこにいることを忘れられるほど、軽い男たちではなかった。
侍は清兵衛を見ると、わずかに顎を引いた。
「来たか」
清兵衛は座敷へ入り、襖が閉じるのを待った。畳の縁を踏まずに進み、侍と向かい合う位置へ腰を下ろす。
「川が静かだったもので」
侍の目が、ほんのわずかに動いた。
「静かな川ほど、底で物が動く」
清兵衛は答えなかった。
座敷には膳が出ていない。
酒も、肴もない。
表では女中が忙しく料理を運び、客の笑い声が絶えず起きている。その同じ建物の奥で、この部屋だけが料理屋であることを忘れたように静まり返っていた。
座敷の中央には、火鉢がひとつ置かれている。
灰の中に埋められた炭が、音も立てずに赤く燃えていた。ときおり表面が白く崩れ、その奥から新しい火の色が覗く。
四人の男のあいだで、火鉢の炭だけが静かに息をしていた。
第三場 本所の辰
火鉢の炭が、白い灰の下で赤く息をしていた。
表座敷から流れてくる三味線の音は、襖や廊下をいくつも隔てるうちに細くなり、この奥座敷へ届くころには、水の底で鳴っているように聞こえた。
女中が廊下を行き交う足音、膳を置く音、酒の勢いを借りた客の笑い声。そのどれもが近くにありながら、部屋の静けさを破ることはない。
火鉢を挟み、侍は清兵衛を見ていた。
顔立ちを眺めているのではない。昔と今とを見比べ、長いあいだ土の下へ埋めてあったものが、まだ同じ場所に残っているかを確かめるような目だった。
清兵衛は膝の上に両手を置き、その視線を受け流している。
座敷の隅に控えた二人の男は動かなかった。呼吸さえ部屋の静けさへ溶け込ませている。ただ、火鉢の赤い光が揺れるたび、伏せていた目の奥へ冷たい光が浮かんだ。
やがて侍が口を開いた。
「近ごろ、町が少し荒れている」
よく通る声だったが、表へ漏れるほど大きくはない。
清兵衛は返事をしなかった。
侍も、答えを求めてはいなかったらしい。火鉢の灰を眺めながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「米も薪も、去年より値が上がった。日雇いの口は減り、働いても腹を満たせぬ者がいる。食えぬ者が増えれば、手を伸ばす者も増える」
炭の端が音もなく崩れ、灰の中に新しい赤が覗いた。
「手を伸ばす者が増えれば、その手を自分のために使おうとする者も現れる。腹を空かせた人間は、わずかな銭でも動く。罪を着せるにも、口を塞ぐにも都合がいい」
清兵衛は侍ではなく、火鉢を見ていた。
町が荒れているという言葉だけなら、屋台へ来る客からも聞いている。仕事にあぶれた人足、日を追うごとに薄くなる煮売り屋の汁、米櫃の底を覗いてから暖簾を出す女房。町の荒れ方は、刃傷沙汰の数よりも、そうしたところへ先に現れる。
侍は清兵衛の横顔から目を離さなかった。
「お前も昔は、ずいぶん手が早かったな」
清兵衛の目が、わずかに動いた。
それだけだった。
侍は声の調子を変えず、長く使われなかった名を口にした。
「本所の辰」
その名は、重みのある小石のように座敷へ落ちた。
表座敷の三味線が、ちょうどそこで高い音をひとつ外した。女の笑い声が重なり、すぐに何事もなかったような調子へ戻っていく。
清兵衛は火鉢を見たまま、膝の上の指を動かさなかった。
だが、炭の赤というものは、ときに古い夜の色を呼び戻す。
夜道を行く提灯の火。番屋の土間で燻っていた火。賭場の煙草盆に埋もれた火種。人を殴ったあと、熱を持った自分の拳を照らしていた、行灯の頼りない明かり。
本所の辰と呼ばれていたころ、清兵衛はまだ清兵衛ではなかった。
名が違っていただけではない。
目の前の人間をどう見るかも、手に入れた話を何に使うかも、今とはまるで違っていた。
辰は、よくない男だった。
悪党と呼ぶには肝が小さく、堅気と呼ぶには手が汚れすぎている。盗みの真似事をし、賭場へ出入りし、口入れ屋の裏で人を待ち伏せた。舟荷の行き先を先に聞きつけ、荷主と問屋の間へ口を差し入れ、小銭を抜くような真似もした。
そのころの本所には、辰のような男がいくらでもいた。
表通りで店を構えるほどの銭もなく、毎日こつこつ働くほどの辛抱もない。大きな悪事を仕組む知恵はないが、他人の懐にあるわずかな銭なら、どうにか自分の方へ動かせる。
そうした半端者たちは、煮売り屋の軒下や賭場の裏口に集まり、自分より弱い者の噂を探していた。
辰は、その中では少し目が利いた。
腕っ節が人並み外れて強かったわけではない。
弱くはなかった。喧嘩になれば、最初の一人を殴り倒す程度の力はある。だが、本当に強い相手には勝てない。二人に囲まれれば分が悪くなり、三人に退路を塞がれれば、立って帰ることさえ難しい。
そのことを、辰自身が誰よりよく知っていた。
だから、相手を選んだ。
気の弱い手代。賭場で負けの込んだ職人。女房子どもに知られたくない借りを抱えた男。店の銭へ手をつけ、その穴をどう塞ぐかもわからず震えている小僧。
そうした者の話を耳にすると、夜が明ける少し前を選んで訪ねていく。
人が最も弱る時刻を、辰は知っていた。
一晩じゅう悩んだ者は、空が白み始めるころになると、もう考える力を失っている。夜のうちなら突っぱねられた言葉も、朝の気配を感じると急に重くなる。戸を叩く音ひとつで、隠していたことが町じゅうへ知れ渡ったような気になる。
辰は、初めから怒鳴ったりはしない。
戸口に立ち、最初は低い声で話す。相手の目が泳ぎ始めたら、知っている事柄をひとつだけ口にする。隠し事をすべて承知しているように思わせるためだった。
相手が震えれば、声を少し大きくした。
逆らえば襟をつかんだ。
泣き出したときには、泣き止むまで待った。
待つことも脅しのうちである。狭い部屋で男に黙って見下ろされていると、泣いている者は、自分から銭の隠し場所を口にする。
それから辰は、少しだけ取った。
持っている銭のすべてではない。明日の米を買える程度には残し、そのかわり、次の給金からまた払うと約束させる。
少しだけ、というところが辰のいやらしさだった。
全部奪えば、相手の恨みははっきりする。何も残らなければ、町役人へ駆け込む覚悟を決める者もいる。
だが、わずかに残せば、まだ自分で何とかできると思う。何とかしようとして、別のところから借りる。その借りを隠すために、また新しい嘘をつく。
嘘がひとつ増えるたび、辰のところへ話が戻ってきた。
辰は、町の弱いところを見つけ、そこへ指を入れて銭を引き出していた。
若い辰は、それを知恵だと思っていた。
他人より先に弱みを見つけ、それを銭に変えられる自分は、町で汗を流して働く者より利口なのだと、本気で思っていた。
そのような暮らしを続けていれば、番所に顔を覚えられるのも早かった。
町内で喧嘩があれば呼ばれ、賭場が踏み込まれれば、端で見ていただけでも引っ張られた。盗みがあった晩に近くを歩いていたというだけで、寝床から起こされたこともある。
初めのころ、辰は番所を恐れていた。
油と汗の染みた土間へ座らされ、後ろ手を取られる。壁には捕縄や刺股が掛けられ、煙草と湿った土の匂いが籠もっている。廻り方の者が何も言わずに帳面をめくる、その音だけで喉が渇いた。
それでも辰は、怯えていると悟られぬよう、へらへら笑った。
「またお前か、辰」
顔馴染みになった廻り方の男が、呆れたように言う。
辰は腫れた頬を歪め、愛想笑いを浮かべた。
「へい。今夜も、たまたま通りがかっただけで」
「お前という男は、悪い場所ばかり、たまたま通りがかるな」
土間の隅にいた下っ引きたちが笑う。
辰も一緒に笑った。
笑いながら、周りの顔を見ていた。
誰が本気で怒っているのか。誰が早く家へ帰りたがっているのか。誰なら少し銭を握らせれば話を軽くしてくれるのか。誰が自分の名だけを覚え、何をしたかまでは見ていないのか。
人の目の動きや声の調子を読むことについては、辰は番所にいる者たちより細かかった。
引っ張られる回数が増えるにつれ、不思議なことに、町の半端者たちの間では辰の名が売れ始めた。
本所の辰は番所へ出入りしている。
役人にも顔が利く。
捕まっても、すぐに出てくる。
そんな噂が、賭場の隅や酒屋の立ち飲みで広がった。
実際には、役人へ顔が利くのではない。顔を知られ、目をつけられているだけである。番所から早く出されたのも、大事にするほどの悪事ではなかったからにすぎない。
だが、町の半端者たちには、その違いがわからなかった。
わからない者がいるなら、辰はその誤解を使った。
「俺の名を出せば、話は早え」
いつからか、そんなことまで口にするようになった。
それを聞いた者が少し怯えると、自分の背丈が伸びたような気がした。実際の辰よりも、本所の辰という名の方が先に歩き始めていたのである。
若い辰は、自分の影が本当より大きく見えることを喜んだ。
影が大きければ、人を脅せる。
だが、影は光の具合で伸びているだけだった。
明かりの向きが変われば、たちまち小さくなり、誰かの足に踏まれる。
辰は何度も、そのことを身をもって知らされた。
ある晩、借金の取り立てへ行き、反対に裸足で逃げ帰ったことがある。
相手は大工だった。
普段は気のよい男で、仕事がうまくいけば仲間へ酒を振る舞う。腕はよいが賭け事が好きで、給金を手にした晩には、半分を賭場へ置いてくることも珍しくなかった。
その大工が負けを重ねていると聞き、辰は夜更けに裏口を訪ねた。
雨上がりの路地には水溜まりが残り、軒から落ちる雫が古い桶の縁を鳴らしていた。辰は戸を二度叩き、本所の辰だと名乗った。
いつものように、まず低い声で脅した。
だが、その晩の大工は、賭場で負けたうえに親方から仕事の手直しを命じられ、ひどく機嫌が悪かった。
辰が借りの話を持ち出すと、大工は返事をしなかった。
黙って仕事場へ戻り、鉋台を両手で持ち上げた。
使い込まれた樫の台は、人の頭を割るには十分な重さがある。
大工の目を見た瞬間、辰は取り立てを諦めた。
戸口から飛び出し、濡れた板を踏んで足を滑らせる。片方の草履が脱げ、泥の中へ膝をついた。その背後へ鉋台が落ち、土を鈍く叩いた。
辰は残った草履まで捨て、裸足で路地を走った。
怒鳴り声と一緒に水桶が飛んできて、肩から背中へ冷たい水を浴びせられた。
本所の辰が、桶に追われて逃げた。
話は三日もかからず広まった。
煮売り屋で笑われ、賭場で真似をされ、顔見知りの女からは、今日は鉋台を持った客はいないのかとからかわれた。
辰は一緒になって笑った。
「水も滴るいい男ってやつだ。大工の野郎も、俺に箔をつけようとしたんだろうよ」
口ではそう言いながら、腹の中では煮え返っていた。
自分が痛い目に遭ったことより、町じゅうに小さな男だと知られたことが悔しかったのである。
別の晩には、賭場からの帰り道で三人の男に囲まれた。
辰が以前脅した職人の兄弟分だった。
月のない夜で、路地の両側には閉まった蔵の壁が続いていた。前にひとり、後ろに二人。横へ逃げようにも、狭い溝と高い板塀がある。
ひとりなら、最初の一撃で怯ませることができたかもしれない。二人でも、逃げ道が残っていれば何とかなった。
だが、三人に囲まれ、退路まで塞がれれば勝ち目はなかった。
腹を蹴られ、倒れたところを背中から踏まれた。頬を切られ、懐にあった銭を取られた。口の中へ泥の味が広がり、起き上がろうとするたび、笑い声と一緒に足が飛んできた。
翌朝、辰は片方の目を腫らし、いつものそば屋へ行った。
店は本所の外れにあった。
表通りから少し入ったところにある、小さな店である。戸口には紺色の暖簾が掛かり、昼には職人や手代が腹を満たしに来る。夜になって周りの店が戸を閉めても、そこだけは遅くまで灯が残っていた。
店の主人は、喜助といった。
五十をいくつか越え、痩せた肩をしていた。客と余計な話をする方ではないが、来た者の顔はよく見ている。懐の具合が悪そうな客には、そばを少し多く盛る。そのくせ代金をまけたとは決して言わなかった。
朝の客がひと段落した店内には、湯気と出汁の匂いが残っていた。
辰が暖簾を分けて入ると、喜助はそばを茹でる手を止めず、その顔をひと目見た。
「また、ずいぶん派手にやられたね」
辰は痛む脇腹を悟られぬよう、平気な顔で腰を下ろした。
「転んだだけだ」
喜助は釜の中を箸で探りながら、腫れた目をもう一度見た。
「人の拳に転んだのかい」
「本所の道には、拳がいくつも落ちてるんだ。夜は足元が見えねえから困る」
いつもなら、喜助は鼻で笑うくらいのことはした。
だが、その朝は笑わなかった。
茹で上がったそばを手早く笊へ取り、湯を切る。丼へ移してつゆを張り、刻んだ葱を載せる。最後に丼の縁を布巾で拭い、辰の前へ静かに置いた。
立ち上った湯気が、腫れた目に染みた。
「辰さん」
喜助が呼んだ。
「あんだよ」
辰は箸を取りながら答えた。顔を上げると、何を言われるかわかってしまいそうで、丼ばかり見ている。
「あんたの噂を聞いたよ」
「俺の噂なんぞ、だいたいは嘘だ」
喜助は釜の火を少し落とした。
「半分は本当だから困るんだ」
客はほかにいなかった。
暖簾の向こうを魚売りの声が通り過ぎ、しばらくすると遠くで桶屋の木槌が鳴り始めた。店の中では、釜の湯が小さく動く音だけが続いている。
喜助は濡れた手を前掛けで拭った。
「あんた、近ごろやりすぎだよ」
辰は返事の代わりに、そばをすすった。
切れた口の端へ熱いつゆが触れ、思わず顔をしかめる。それを隠すように、もうひと口すすった。
「そば屋が、人の生き方にまで口を出すのか」
「うちのそばを食ってる人の話なら、少しは言うさ」
「俺は銭を払ってる客だぜ」
「客だから言うんだ。通りすがりの人なら、好きにすればいい」
喜助は辰の向かいに座ることはせず、釜のそばに立ったままだった。
「辰さん。あんたは腕っ節で食ってるつもりかもしれないが、本当に怖い連中は、腕っ節なんか人に見せないよ」
辰の箸が止まった。
喜助は、店先の暖簾が風で揺れるのを見ていた。
「脅して銭を取るうちは、まだ町内の喧嘩で済む。殴った、殴られた、番屋へ連れていかれた。運がよけりゃ、笑い話にもなる」
火を落とした釜から、細い湯気が上がっている。
「けれど、そのうち誰かがお前さんを使おうとする。顔が売れている。町の裏道を知っている。汚れ仕事にも慣れている。それでいて、本当の後ろ盾はない」
喜助はそこで辰を見た。
「そういう男は、使い捨てにするにはちょうどいい」
辰は鼻で笑った。
「そば屋にしちゃ、ずいぶん物騒なことを言うじゃねえか」
「そば屋だから言えるんだよ」
喜助は、客のいない腰掛けへ目をやった。
「人は、そばが茹で上がるまでのあいだに、余計なことを喋る。食っているあいだは、もっと喋る。お前さんが怖いと思っている地回りも、役人の名を使って威張る男も、ここへ来れば丼を抱えて愚痴をこぼす」
喜助は毎日、同じ場所でそばを茹でている。
町を歩き回る辰より、動かない喜助の方が、多くの人間を見ているのかもしれなかった。
この男は、ただそばを茹でているだけではない。
辰は初めて、そう思った。
しかし、そのときの辰には、それを素直に認めることができなかった。
「俺は、使い捨てにされるほど安くねえ」
残ったそばを一息にすすり、丼を置いた。
喜助は代金を受け取り、掌の銭を数えもしなかった。
「自分を高いと思っているのは、売られる本人だけってこともある」
辰は返事をしなかった。
暖簾を乱暴に分け、外へ出た。
腹が立ったのである。
腹が立つのは、喜助の言葉に覚えがあったからだった。
辰には、人を見る目があった。
嘘をつく前に、ほんのわずか浅くなる息。金を隠している者が、無意識に懐へ添える手。逃げ道を探すときの目の動き。強がっている者が、力を入れすぎて持ち上げる肩。
そうしたものが、若いころからよく見えた。
だから町の裏を歩くことができた。
どの時刻に舟荷が動くのか。どの問屋が帳面の数をごまかしているのか。どの賭場へ役人の目が向いているのか。どの地回りが弱り、どの口入れ屋が新しい人足を集めているのか。
辰は、人からこぼれた話を拾うのがうまかった。
だが、拾った話をどう扱うかは下手だった。
話を得れば、すぐに銭へ変えようとする。誰かの弱みを知れば、すぐに脅しへ使う。少し名が知られれば、それを何倍にも大きく見せようとする。
それが若さだった。
いや、若さだけではない。
卑しさでもあった。
辰は立派な悪党ではなかった。
立派な悪党というものが、この世にあるならの話だが。
悪くなりきるには、妙なところに情が残っている。堅気になるには、すでに手を汚しすぎていた。
泣いている相手から目をそらすくせに、その相手から銭を取ることはできる。腹を空かせた子どもへ握り飯を買ってやり、その帰り道で別の男を脅し、懐へ手を入れることもできた。
善人になる覚悟も、悪党として腹を決める度胸もない。
そういう男だった。
本所には、そのような半端者がいくらでもいた。
ただ、辰はその中で少しだけ目が利いた。少しだけ口が立ち、少しだけ逃げ足が速かった。
そのわずかな違いが、辰を「本所の辰」にした。
そして、そのわずかな違いが、いずれ辰を殺しかけることになる。
ある晩、辰はまた番屋の土間に座らされていた。
深川の手前の路地で起こした、つまらない喧嘩だった。
借りのある男を見つけ、銭を出せと迫った。男は持っていないと言ったが、懐へ添えた手を見て、辰は嘘だと決めつけた。
襟をつかみ、板塀へ押しつける。
そこへ男の連れが割って入った。
あとは、いつものようにくだらなかった。
押した手が誰かの胸に当たり、押し返された背中が桶へぶつかる。倒れた桶から汚れた水が流れ、近くにいた女が悲鳴を上げる。止めに入った男まで殴られたと思い込み、拳を振り回す。
誰が最初に殴ったのかさえ、下っ引きが駆けつけるころにはわからなくなっていた。
気がつけば、辰は番屋の土間に座っていた。
向かいには襟を破られた男がおり、辰の頬にも、板塀で擦った赤い傷ができている。倒れた桶の水を浴びたため、着物の裾からは、生臭い溝の匂いがした。
番人は煙草盆を引き寄せ、火皿へ灰を落とした。
もう怒鳴る気にもなれないという顔で、辰を眺めている。
「辰。お前はいっぺん、本当に痛い目を見ねえとわからねえな」
辰は、傷の痛みを隠して笑った。
「痛い目なら、昨日も見ましたよ」
「足りねえんだ」
番人は煙管を煙草盆の縁へ置いた。
「お前がこれまでに見た痛い目は、まだ人に話して笑える。鉋台に追われた、三人に囲まれて銭を取られた。傷が治れば、酒の肴になる」
土間の隅で聞いていた下っ引きが、鉋台の話を思い出して笑った。
番人は笑わなかった。
「だがな、世の中には、笑い話にならねえ痛い目がある。痛いと声を上げる暇もなく、誰にも知られず消されることがある」
辰の顔から、少しだけ笑みが消えた。
「この町には、お前みたいな半端者を探しているやつがいる。使うだけ使い、用がなくなれば川へ捨てる。そういうやつは、ここへ引っ張られるような喧嘩はしねえ。番屋に名前を知られることもない」
番人は身を乗り出し、辰の目を見た。
「お前は、自分が裏を歩いているつもりなんだろう」
下っ引きがまた笑いかけたが、番人の顔を見て口を閉じた。
「だが、お前は裏の入口で尻を振ってるだけだ。その向こうに何がいるのかも知らず、自分を大きく見せている」
辰は笑わなかった。
番人の言葉が、喜助の話と同じ匂いを帯びていたからである。
使い捨てにされる。
川へ捨てられる。
自分より怖い者は、腕っ節など見せない。
別々の場所で、別々の暮らしをしている二人が、同じことを言う。それが辰には気に食わなかった。
番屋を出されたとき、夜はすでに深くなっていた。
喧嘩相手とは、互いに今後手を出さぬということで話を収められた。もっとも、どちらも心から守るつもりはない。番屋を出るときだけ殊勝な顔をし、次に会ったときは目をそらす。それで済めばよい方だった。
辰は濡れた裾を引きずり、しばらく歩いた。
酒屋の灯は落ち、表通りを行く人影も少ない。遠くで夜回りの拍子木が鳴り、その音が家並みの間を渡っていく。
竪川に架かる橋まで来ると、辰は欄干へ両腕を載せた。
川の水は暗かった。
両岸の灯が細長く映り、流れに揺られて形を変えている。自分の顔が見えるかと思い、身を乗り出して覗き込んだ。
だが、そこに見えたのは辰の顔ではない。
歪みながら流れていく、赤や黄色の火ばかりだった。
喜助の声が蘇る。
使い捨てにちょうどいい。
続いて番人の声が重なる。
裏の入口で尻を振っているだけだ。
辰は舌打ちし、川面へ唾を吐こうとした。
そのとき、背後から声がした。
「本所の辰か」
低い声だった。
酔客の呼びかけではない。喧嘩を売る者の声でもなかった。
辰は欄干から背を離し、ゆっくり振り返った。
橋のたもとに、知らない男が二人立っていた。
どちらも町人の身なりをしている。着物は使い込まれ、袖口も地味だった。足袋には泥がつき、腰にも目立つものを差していない。
それでも、歩き方が町人ではなかった。
二人は橋の上へ出てくるまで、ほとんど足音を立てていなかった。立つ場所も、ひとりが辰の正面、もうひとりが逃げ道となる橋の端を押さえるような位置にある。
何より、目が静かだった。
喧嘩をする者の目には、怒りや怯えが浮かぶ。盗みを働く者の目には、見つかることへの焦りがある。
二人の目には、どちらもなかった。
相手が辰であろうと、別の誰かであろうと、同じ仕事をする。そう決めている者の目だった。
辰は胸の内に生じた小さな警戒を、笑みで隠した。
「だったら、何だ」
男のひとりが半歩だけ前へ出た。
顔の下半分は笠の影に入り、口元しか見えない。
「ちょいと頼みたいことがある」
声には脅しも媚びもなかった。
辰は欄干から完全に身を離した。二人を順に見ながら、いつでも走れるよう、右足をわずかに後ろへ引く。
喜助の言葉が、頭の隅で鳴った。
あんたみたいな男は、使い捨てにちょうどいい。
番人の顔も浮かんだ。
裏の入口にいるだけだ。
胸の中で鳴っている音は小さかったが、聞こえなかったわけではない。
男たちの立ち方を見れば、普段の辰なら、すぐに話へ乗るべきではないとわかったはずである。どこの者かを確かめ、逃げ道を残し、少なくとも人目のある場所まで移るべきだった。
だが、若い辰は、その警告を聞かなかったことにした。
そば屋と番人から同じように小さく見られ、腹を立てていた。自分は使われる側の人間ではない。相手を見抜き、話を利用し、銭を取る側の男だと証明したかった。
辰は顎を少し上げた。
「頼み事なら、銭次第だ」
男たちは顔を見合わせなかった。
ただ、前に立つ男の口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
驚きもしなければ、値を尋ねもしない。辰がそう答えると、最初から知っていたような笑い方だった。
辰は、その笑みが気に食わないと思った。
自分が値踏みしているはずなのに、値をつけられているのはこちらのような気がした。
川から湿った風が上がり、辰の裾を揺らした。橋の下では水が流れ、町の明かりを引き延ばしている。
今なら、背を向けることもできた。
何の用だと聞くだけ聞き、断ることもできた。
だが、それでも辰の足は動いた。
二人の男が待つ方へ、一歩踏み出した。
悪い方角へ向かう一歩だった。
この夜から、辰は自分で道を選んでいるつもりのまま、少しずつ他人に行き先を決められていく。
使う者と使われる者の境目が、どこにあるのかも知らなかった。
そして、その道の先で、本所の辰は一度、本当に自分の名を失うことになる。
第四場 襲撃の夜
橋のたもとで辰を待っていた二人の男は、名を名乗らなかった。
辰も、あえて聞かなかった。
こういう頼み事では、互いの素性を知らぬ方が都合のよいことがある。仕事が済めば縁を切り、番屋へ引かれたときには、知らぬ存ぜぬで押し通す。
それが裏の仕事を引き受ける者の知恵だと、若い辰は思っていた。
男たちは、竪川沿いの暗い道へ辰を連れていった。
月は薄い雲に隠れ、川面には両岸の灯が細長く揺れていた。昼のあいだ米俵や材木を運んでいた舟は、岸辺へ黒い船腹を寄せ、濡れた縄に繋がれている。
風が吹くたび、水と泥の匂いに、古い木材や魚油の匂いが混じった。
二人の男は、辰を挟むように歩いていた。
ひとりは数歩先を行き、もうひとりは後ろをついてくる。辰が歩調を落とせば、背後の男も遅くなった。急かしはしないが、逃げ道だけは与えぬ歩き方だった。
辰は前の男の背中を見ながら、胸の奥に生じたざらつきを、まだ気のせいとして押し込めていた。
「それで、頼みってのは何だ」
前を行く男は、振り向かなかった。
「取り立てだ」
「誰から、いくら取る」
「松市という人足だ。博打の借りがある」
辰は頭の中で、その名を探した。
本所と深川の賭場には、ひととおり顔を出している。大負けした人足や、借りを踏み倒した男の話なら、賭場の端に座っているだけでも耳に入った。
だが、松市という名には覚えがない。
「どこの賭場だ」
「お前の知らぬところだ」
「俺が取り立てるんだ。少しくらい話を聞かせてもらわねえと、やりようがない」
男は足を止めた。
軒下に掛けられた行灯の明かりが、笠の縁から覗く口元だけを照らしている。その顔に、苛立ちも迷いもなかった。
「松市の家へ行き、夜明けまでに三両用意しろと伝えろ」
「三両?」
辰は思わず聞き返した。
「間違いじゃねえのか」
「三両だ」
人足が賭場で作る借りとしては、あまりに大きい。
大店の手代なら、店の銭へ手をつければ用意できるかもしれない。だが、日々の稼ぎで米を買う人足が、夜明けまでに三両を揃えられるはずがなかった。
「持っていなけりゃ、どうする」
「作らせろ」
「どこから」
「それを考えるのが、お前の役目だ」
男は懐から銭包みを取り出し、辰へ投げた。
辰は胸元で受け止めた。
包みは、仕事の手付けにしては重かった。紐を少し緩めて中を確かめると、夜目にも銀の色が見えた。
取り立てた銭の分け前ではない。
仕事を引き受けるだけで、これだけ払うという。
辰は掌の包みを見た。
金を受け取る前なら、話が臭うと言って背を向けることもできた。
しかし、銀の重みを知ったあとでは難しい。
これだけの手付けを出すからには、何かある。
だが、裏があることを見抜いている自分なら、うまく立ち回れる。危なくなれば先に逃げ、払わせられる分だけ松市から取ればよい。
辰はそう考えた。
危ない仕事を避けるのではなく、危ないと承知したうえで相手を出し抜く。それが自分の利口さだと思いたかった。
喜助に小さく見られ、番人にも半端者と呼ばれたばかりだった。
自分は使われるだけの男ではない。
その思いが、胸の奥に残る警戒より勝った。
辰は包みを懐へ入れた。
「松市の家はどこだ」
男は、ごくわずかに口元を緩めた。
辰が受け取ることを、初めから知っていたような笑みだった。
三人は、本所から深川へ抜ける裏道へ入った。
通りの灯は遠ざかり、道は次第に狭くなっていく。片側には黒い堀があり、低い柵の向こうで、水が岸を舐めている。反対側には古い長屋が並び、板壁の隙間から味噌を煮る匂いや、湿った寝具の匂いが漏れていた。
炭を惜しんでいる家が多いらしい。
寒さが増しているというのに、煙を出している家は少なかった。閉じた戸の向こうから、子どもの咳や、赤ん坊を寝かしつける女の声が聞こえてくる。
前を行く男が、堀端から奥へ延びる路地を示した。
「突き当たりから二軒目だ」
「お前たちは来ねえのか」
「取り立ては、お前の仕事だ」
辰は二人を見比べた。
男たちは路地の中へ入ろうとしない。
「夜明けまでに三両だな」
「そうだ」
男は一度頷いてから、付け加えた。
「松市を家から出すな」
辰は眉を寄せた。
借金を用意させるなら、親類や仲間へ借りに走らせることもある。家から出すなというのは、取り立てのやり方としておかしい。
「銭を作らせるのに、家から出すなってのか」
「女房でも子どもでも、使いに出せばよい」
「ずいぶん妙な話だな」
辰が探るように言っても、男の顔色は変わらなかった。
「もう銭は受け取ったはずだ」
それだけを残し、二人は来た道を戻っていった。
足音はすぐに川の音へ紛れた。
辰は、ひとり路地の入口に残された。
長屋の上には、雲に隠れた月の白さだけが滲んでいる。堀の水は黒く、底の見えない穴のようだった。
路地は狭い。
入口を塞がれれば、逃げられる道はない。長屋の裏は堀へ落ち、向こう岸へ渡る橋も近くにはなかった。
妙だ。
胸の奥のざらつきが、先ほどより大きくなっていた。
三両という額。
重すぎる手付け。
松市を家から出すなという言葉。
どれも取り立ての話としては筋が通らない。
それでも、懐にはすでに銭が入っている。
辰は着物の上から包みを押さえた。
いま戻って二人を追ったところで、居場所はわからない。仕事を捨てて逃げれば、あの男たちに追われる。何より、本所の辰が妙な頼みに怖じ気づいたと噂されることが、辰には耐えられなかった。
「三両だろうが四両だろうが、言うだけなら同じだ」
自分へ言い聞かせるように呟き、辰は路地へ入った。
突き当たりから二軒目の戸を叩いた。
一度目は、返事がなかった。
辰は拳へ力を入れ、もう一度叩いた。
薄い戸が揺れ、その音が夜の長屋に響く。隣家の赤ん坊が驚いたように泣き始め、女が小声で宥めるのが聞こえた。
しばらくして、戸の内側から掠れた声がした。
「誰だ」
「松市だな」
返事が途切れた。
中にいる。
辰は戸板へ手を置いた。
「開けろ。本所の辰だ」
松市が辰の名を知っているかどうかはわからない。
だが、夜更けに名を名乗って戸を叩く男が、穏やかな客でないことは伝わったらしい。家の中で小さな物音がし、やがて閂が外された。
戸は、ほんの少しだけ開いた。
隙間から、痩せた男の顔が覗く。三十半ばほどだろうが、頬が落ち、目の周りには疲れがこびりついていた。
「何の用だ」
辰は戸の隙間へ足を差し入れ、そのまま押し開いた。
部屋には、小さな行灯がひとつあるだけだった。
燃やす油も惜しいのだろう。灯芯は短く絞られ、明かりは人の顔まで届かない。擦り切れた畳の上には、繕いの跡だらけの夜着が置かれている。
壁際の火鉢には炭がない。
冷たい灰の上に、欠けた茶碗が伏せてあった。棚にある米櫃は蓋が少しずれ、底が見えるほど軽そうだった。
辰は部屋へ入っただけでわかった。
ここに三両などない。
三分でさえ残っているかどうか怪しい。
この男を逆さに振ったところで、三両が落ちてくるはずはなかった。
部屋の奥には、七つか八つほどの男の子がいた。
薄い布団を肩まで引き上げ、行灯の届かぬところから辰を見ている。痩せた顔に大きな目だけが浮き、怯えながらも父親の様子を見逃すまいとしていた。
辰は、子どもから目をそらした。
松市を脅しに来たことは変わらない。
だが、何も知らない子どもに見られていると、いつものようには口が動かなかった。
辰は松市の胸元をつかみ、子どもから少し離れた壁際へ押した。
「賭場の借りだ。夜明けまでに三両用意しろ」
松市の顔に、恐怖より先に困惑が浮かんだ。
「三両?」
聞き間違えたのだと思ったらしい。
「そうだ」
「何を言ってやがる。借りたのは三分だ」
「俺が聞いたのは三両だ」
「三分だ。それだって、元は二分だった。利を乗せられて三分になったんだ。三両なんて借りちゃいねえ」
松市の声が大きくなる。
奥の子どもが布団を握りしめた。
「声を落とせ」
「落とせるか。三分が、どうして三両になるんだ」
松市は辰の手を払いのけようとした。
人足だけあって、痩せていても腕には力が残っている。しかし、腹を満たしていない男の力だった。
辰は腕を捻り上げ、壁へ押しつけた。
薄い板壁が大きく鳴る。
「俺に言っても仕方ねえ。銭を用意しろ」
「見りゃわかるだろう。どこにそんな銭がある」
松市は痛みに顔を歪めながら、部屋の中へ目をやった。
炭のない火鉢。
継ぎの当たった布団。
痩せた子ども。
これが全部だと言いたいのだろう。
辰には、言われるまでもなくわかっていた。
取り立ては、取れる相手からするものだ。
何もない者を殴っても、手が痛むだけで銭にはならない。辰はこれまで何人もの懐を探り、どの家に何が残っているかを見てきた。
この家に三両はない。
夜明けまで待っても出てこない。
依頼した者たちにも、それがわからないはずはなかった。
では、なぜ自分をここへ寄越した。
辰の中で、疑いがいよいよ濃くなった。
奥から子どもが出てきた。
「父ちゃんを放せ」
細い腕で辰の腰へしがみつく。
「太吉、引っ込んでろ」
松市が叱った。
「でも、父ちゃんが」
「いいから戻れ」
太吉は父親の声に怯みながらも、辰の着物を放さなかった。
辰はその手を振り払えず、松市から離れた。
「こいつを向こうへやれ」
松市は捻られた腕を押さえ、太吉を抱き寄せた。
怖いなら逃げればよいのに、太吉は父親の前へ立とうとしている。細い背中が小さく震えていた。
辰は二人の姿を見ないように、戸口へ顔を向けた。
そのとき、堀の方から短い口笛が聞こえた。
一度。
少し間を置いて、二度。
辰は黙って外へ出た。
路地の入口に、先ほどまではなかった荷車が置かれている。空の酒樽を積んだ車が、道幅の半分を塞いでいた。
荷を運ぶために来た車ではない。
人の動きを遮り、逃げ道を狭くする置き方だった。
辰は、路地と松市の家、そして荷車の位置を見た。
胸の奥が冷えた。
松市から三両を取ることが目的ではない。
松市を家へ閉じ込め、自分をこの路地に置くことが目的だったのだ。
だが、まだ何のためなのかまではわからない。
堀沿いの道から、二人連れが歩いてきた。
前を歩くのは町人姿の男だった。
地味な着物を身につけ、笠を深くかぶっている。だが、狭い道へ入る前に左右の暗がりを確かめる目つきと、足音を立てぬ歩き方は、商家の男のものではなかった。
その後ろには、頭巾で顔を隠した女がいる。
二人が荷車へ近づいたところで、暗がりから男たちが現れた。
刀を抜いた浪人が二人。
長脇差や棍棒を持った博徒が三人。
その後ろには、顔の下半分を手ぬぐいで隠した指図役がひとりいる。
「男を先にやれ。女も逃がすな」
指図役が低く命じた。
そこで辰は、すべてを悟った。
自分を松市の家へ送り、法外な借金を取り立てさせる。近所の者は、本所の辰がまた揉め事を起こしたと思い、戸を閉める。
その隙に、男と女を殺す。
あとで死骸が見つかれば、借金取りの騒ぎに巻き込まれたことにする。あるいは、本所の辰が斬ったことにされる。
高い手付けは、辰を確実にこの場所へ来させるための餌だった。
松市を家から出すなと言ったのは、襲撃の目撃者を増やさぬためだったのだ。
はめられた。
ようやく気づいた。
気づくのが遅すぎた。
辰は懐の銭包みを握った。
重かったはずの銀が、急に冷たい石のように感じられた。
喜助の声が、耳の奥で蘇る。
――あんたみたいに顔が売れていて、本当の後ろ盾がない男は、使い捨てにちょうどいい。
番人の声も重なる。
――お前は、自分が裏を歩いているつもりだろうが、裏の入口で尻を振っているだけだ。
「ちくしょう」
辰は小さく呟いた。
二人は知っていた。
喜助も番人も、このような者たちがいることを知っていた。それなのに辰だけが、自分は人を使う側だと思い込んでいた。
実際には、少し多い銭を見せられただけで、言われた場所へ来た。
三両という不自然な額にも、松市を外へ出すなという妙な指図にも気づきながら、仕事を引き受けた。
自分から罠へ入ったのだ。
堀端で刀が抜かれた。
町人姿の男は女を背後へかばい、懐から短い刃を出した。だが、六人を相手にして逃げ切れるようには見えない。
辰は、まだ動かなかった。
自分を罠へかけた者たちである。
だが、だからといって、見知らぬ男と女を助けるために命を懸ける理由もない。
武家の争いか、女をめぐる揉め事か。
好きにすればよい。
自分は隙を見て逃げる。
そう思った。
浪人が町人姿の男へ斬りかかった。
男は女を横へ逃がし、短い刃で刀の向きをそらした。刃と刃が擦れ、暗い道に小さな火花が散った。
女は長屋の方へ走った。
その騒ぎに驚き、太吉が家から飛び出した。
「太吉、出るな」
松市が叫ぶ。
太吉は父親を振り返り、路地の真ん中で立ち止まった。
そこへ、女を追っていた博徒が走り込んできた。
「邪魔だ」
男は走る勢いのまま、太吉を蹴った。
小さな体が地面へ転がり、堀際の柵へぶつかる。
「太吉」
松市が戸口から飛び出そうとした。
辰は反射的に、その胸を腕で止めた。
「放せ。せがれが」
「お前が出たら、斬られる」
「それでも、あれは俺の子だ」
松市は辰の腕を掻きむしった。
太吉は柵のそばで体を丸め、苦しそうな咳をした。やがて声を上げて泣き始める。
博徒が苛立ったように振り返った。
「黙れ。人が出てくるだろうが」
男は太吉の襟をつかみ、口を塞ごうとした。
その瞬間、辰の中で何かが切れた。
自分も松市を脅した。
太吉の見ている前で胸倉をつかみ、壁へ押しつけた。善人ぶって他人を責められる男ではない。
それでも、子どもを蹴るのは違う。
泣いたからと、口を塞ぐのも違う。
大人同士の借りや恨みと、子どもは関わりがない。
辰は松市を家の中へ押し戻した。
「戸を閉めろ」
「太吉がいるんだぞ」
「俺が連れてくる。お前は出るな」
松市は信じられないという顔で辰を見た。
無理もない。
ほんの少し前まで、自分を脅していた男である。
辰は返事を待たず、太吉を押さえている博徒の背後へ回った。
「その子を放せ」
博徒が振り向いた。
その目には、辰が何者なのかを確かめる様子がなかった。
「借金取りは、そこで借金取りをしてろ。こっちの仕事へ口を出すな」
辰の胸の奥が、もう一度冷えた。
なぜ、この男は自分が借金取りだと知っている。
辰が松市の家へ入ったところを見ただけなら、夜更けの客としかわからないはずだった。博徒が迷わず借金取りと呼んだのは、襲撃の前に、本所の辰がこの場所で取り立てをしていると聞かされていたからである。
この者たちは、初めから辰の役目を知っていた。
知らされていなかったのは、辰だけだった。
「放せと言ったんだ」
「黙って見てりゃ、分け前が出るかもしれねえぞ」
男は太吉を投げ捨て、辰の胸を押した。
太吉は咳き込みながら地面を這い、松市の家へ戻ろうとしている。
辰は男の腕をつかみ、その体を長屋の壁へ叩きつけた。
薄い板壁が大きく鳴った。
博徒の膝から力が抜け、その場へ崩れる。
「太吉、こっちだ」
松市が戸口から手を伸ばし、太吉を家の中へ引き入れた。
襲撃側の指図役が、すぐに声を上げた。
「辰も残すな」
今度は、はっきりと名を呼ばれた。
辰は指図役の方を見た。
やはり、自分の名まで知られている。
襲撃が済んだあと、辰を生かして帰すつもりなどなかったのだ。死骸を残しておけば、何もかも本所の辰が起こした騒ぎとして片づけられる。
長脇差を抜いた男が、辰へ向かってきた。
辰はまともには受けなかった。
路地を塞いでいた荷車の歯止めを蹴り外し、堀へ向かって押した。
荷車が狭い道を動き、襲撃者たちの間へ割り込む。積んであった空樽が落ち、石畳の上を大きな音を立てて転がった。
突然のことに、博徒たちが身を避ける。
「いまだ。走れ」
辰が叫んだ。
町人姿の男は女の腕を取り、長屋と材木置き場の間にある細道へ走った。
浪人が追おうとする。
辰は荷車から落ちた梃子棒を拾い、その前へ突き出した。浪人が棒を刀で払う。
もうひとりの博徒が、横から辰へ斬りかかった。
避けきれなかった。
刃が辰の左腕から肩口を走った。
着物が裂け、熱い血が噴き出す。
辰は痛みに顔を歪めながら、梃子棒を博徒の足元へ叩き込んだ。男が倒れ、後ろの浪人とぶつかる。
それだけで十分だった。
町人姿の男と女は、すでに暗い細道の奥へ消えている。
長屋では赤ん坊が泣き、犬が吠えていた。遠くから夜回りの拍子木も聞こえ始める。
指図役は逃げた二人の方を見た。
次に、騒ぎ始めた長屋を見た。
これ以上続ければ、人が集まる。
「引け」
短く命じた。
襲撃者たちは、倒れた仲間を起こしながら退いていった。銭で集められただけの者たちである。誰も、逃げた者を追って命まで捨てようとはしなかった。
ひとりが堀沿いへ走ると、残る者も続いた。
足音が遠ざかり、やがて夜の中へ消えた。
あとには横を向いた荷車と、路地へ転がった酒樽、石畳へ落ちた血だけが残った。
辰は梃子棒を手放した。
左腕の力が抜け、指先の感覚が薄くなっている。傷口を右手で押さえたが、指の間から温かな血が溢れた。
張り詰めていたものが切れると、路地が急に暗くなったように感じられた。
松市の家の戸が開いた。
松市が太吉を抱きかかえ、外へ出てくる。
太吉は胸を押さえていたが、意識はある。父親の肩越しに、血を流す辰を見ていた。
「おい、辰」
松市が近づいた。
「腕を見せろ」
「お前に心配される筋じゃねえ」
辰は笑おうとした。
しかし、唇がうまく動かなかった。
「俺は、ほんの少し前まで、お前を脅してたんだぞ」
「それでも、太吉を助けた」
「蹴ったやつが気に食わなかっただけだ」
「理由なんか、どうでもいい」
松市の声は震えていた。
恐怖がまだ抜けていないのだろう。自分がなぜ襲撃のそばへ置かれたのかも、辰が何に巻き込まれたのかもわからない。
それでも、子どもを助けられたことだけはわかっている。
「医者へ行くぞ」
「銭があるのか」
「ねえよ」
松市は吐き捨てるように答えた。
「けど、玄庵先生なら診てくれる。太吉が熱を出したときも、薬代を待ってくれた。女房が寝込んだときも、銭を取らずに薬を置いていった」
辰は返事をしようとした。
だが、松市の顔が二つに見えた。
膝から力が抜け、長屋の壁へ肩を預ける。傷が壁へ触れ、焼けるような痛みが走った。
「おい、しっかりしろ」
松市が辰の体を支えた。
それまで戸を閉ざしていた長屋の者たちも、ひとり、またひとりと外へ出てきた。
最初に顔を出したのは、隣に住む年寄りだった。続いて、鉢巻きをした職人、夜着を羽織った女、裸足の若い人足が出てくる。
誰も、襲撃の最中には外へ出られなかった。
刀を持った男たちが道を塞いでいるところへ出れば、斬られる。家族を守るには、戸を閉めて息を潜めるしかなかったのである。
だが、騒ぎが収まったいま、血を流す男を放っておくこともできなかった。
「何があったんだ」
「侍が何人もいたぞ」
「そこの男は誰だ」
行灯を持った女が、辰の顔を照らした。
薄い光の中で、年寄りが目を細める。
「こいつ……本所の辰じゃねえか」
別の男が辰の顔を覗き込んだ。
「本当だ。番所へ何度も引かれてる辰だ」
「じゃあ、こいつが騒ぎを起こしたのか」
その言葉に、松市が振り返った。
「違う」
普段なら、借金を取り立てに来た辰をかばう理由などない。
それでも松市は、太吉を抱いたまま声を張った。
「辰は、あいつらを逃がしたんだ。太吉も助けてくれた。斬ったのは、逃げた連中だ」
長屋の者たちは顔を見合わせた。
本所の辰が子どもを助けた。
すぐには信じられない話だった。
しかし、太吉は松市の肩へしがみついたまま、はっきりと言った。
「辰が、助けてくれた」
その声を聞き、年寄りが横倒しになった荷車へ目をやった。
「話はあとだ。これだけ血が出てりゃ、朝まで持たねえぞ」
「玄庵先生のところへ運ぶ」
松市が言った。
「だが、どうやって」
若い人足が、倒れた荷車を指した。
「これを起こせ。樽を下ろせば、人ひとりは載せられる」
男たちは荷車へ集まった。
横倒しになった車体へ肩を入れ、掛け声を合わせる。
「せえの」
軋んだ車輪が動き、荷車がゆっくりと起き上がった。車軸の片方は少し歪んでいたが、押して歩くことはできそうだった。
路地へ転がった樽をどけ、荷台へ古い筵を敷く。
そのあいだにも、辰の意識は遠のいていた。
人の声が、水の向こうから聞こえるようにぼやけていく。
喜助の顔が浮かんだ。
高いと思っているのは、売られる本人だけってこともある。
番人の声がした。
お前の痛い目は、まだ笑い話になる。
「笑えねえじゃねえか」
辰は呟いたつもりだった。
だが、声になったかどうかは、自分でもわからなかった。
松市と長屋の男たちが、辰の体を持ち上げた。
傷へ触れられたはずだが、もう痛みも遠い。背中の下へ筵の硬さを感じたあと、夜空が視界いっぱいに広がった。
雲の切れ間から、細い月が覗いていた。
「玄庵先生のところまで急げ」
松市の声がした。
荷車の車輪が回り始める。
歪んだ車軸が一度回るたび、低い音を立てた。長屋の女が行灯を持って先を照らし、男たちが荷車を押す。松市は太吉を隣家の女へ預け、自分も柄へ手を掛けた。
堀端の暗い道を、荷車が進んでいく。
その上で辰は、すでに意識を失っていた。
背後には、襲撃のために置かれた酒樽と、辰へ罪を着せるはずだった血の跡が残されている。
だが、その夜に起きたことを見ていた者は、もうひとりではなかった。
松市も太吉も、長屋の者たちも、本所の辰が何をしたのかを知っていた。
第五場 玄庵の灯
辰が目を開けたとき、最初に見えたのは天井ではなかった。
煤で黒くなった梁から、小さな灯が吊るされていた。
油を惜しんでいるのだろう。灯芯は短く絞られ、火は針の先ほどの細さで揺れている。明るいというより、部屋の暗さをかろうじて押し返しているだけだった。
灯の周りには薄い煙がまとわりつき、梁の下へ青白く溜まっていた。薬草を煎じる苦い匂いに、古い畳、湿った布、乾き始めた血の生臭さが混じっている。
辰は、何度か瞬きをした。
自分がどこにいるのか、すぐにはわからなかった。
体の下には薄い敷布があり、首筋には汗が冷たく残っている。口の中は乾き、舌には鉄を舐めたような味がした。
目を閉じると、暗い路地が断片となって浮かんだ。
堀の黒い水。酒樽を積んだ荷車。松市の家にあった、炭の入っていない火鉢。太吉の細い背中。刀が夜の灯を拾った瞬間。
そして、左腕を走った鋭い熱。
その先の記憶は、濁った水の中へ沈んでいた。
辰は右手を敷布へつき、体を起こそうとした。
肩から腕にかけて火が走った。
息が喉で詰まり、目の前の灯が大きく揺れる。力の抜けた体は、元の場所へ落ちた。
「動くな」
部屋の隅から、低い声がした。
辰は首を動かさず、目だけをそちらへ向けた。
薬研の前に、痩せた男が座っていた。
年は六十をいくつか越えている。白髪の混じった髷を小さく結い、薬の染みた前掛けをしていた。背中には長年の疲れが積もっているように見えるが、伏せていた目を上げると、その光だけは年老いていなかった。
玄庵だった。
本所から深川にかけて、その名を知らぬ長屋者は少ない。
銭を持つ者からは薬代をきちんと取り、持たぬ者を追い返すこともしない。代わりに払えるものがなければ、薪を割らせることもあれば、井戸の水を汲ませることもある。それすらできぬ病人には、何も言わず薬を置いていく。
町の裏を歩く者たちは、玄庵について別のことを囁いていた。
あの医者の前では、余計な嘘をつくな。
傷口を見る目で、人の腹の中まで見抜く。
辰は、その噂を何度も耳にしていた。
玄庵は薬研の中の乾いた葉を、石の棒でゆっくりと押し潰していた。ごり、ごり、と鈍い音が、夜の静けさへ一定の間隔で落ちている。
辰が掠れた声で場所を尋ねると、玄庵は手を止めず、自分の家だとだけ答えた。
続いて、死に損なったな、と言った。
慰めでも皮肉でもない。傷の具合を述べるのと変わらぬ声だった。
辰は笑って返そうとした。
だが、口の端を動かしただけで肩へ痛みが響き、笑いは浅い息に変わった。
玄庵は薬研を置き、辰の枕元へ来た。
左の肩口から腕にかけて、厚く布が巻かれている。表面には黒く乾いた血がこびりつき、その中央には新しい赤が滲んでいた。
玄庵が布の端へ指を掛けた。
辰は反射的に体を固くした。
布が傷へ貼りついていることは、自分でもわかった。剥がされれば、どれほど痛むかも想像できる。
待てと言いかけたときには、玄庵の手が動いていた。
布がゆっくりと傷口から離れる。
熱い鉄を押し当てられたような痛みが、肩から首筋へ駆け上がった。辰は右手を伸ばしかけたが、玄庵に手首を押さえられた。
暴れるなら縛る。
玄庵はそれだけ言い、傷を洗い始めた。
桶の水へ血が落ちる。
細い赤い筋が水の中を漂い、ゆっくりと形を失っていった。
玄庵の手つきは早い。しかし乱暴ではなかった。
痛くないとは言わず、大丈夫だとも言わない。必要な場所へ必要なだけ指を置き、傷の深さと熱を確かめていく。
血を見慣れた手だった。
辰は煤けた梁を睨み、奥歯を噛んで痛みに耐えた。
そうしているうちに、途切れていた記憶が少しずつつながった。
三分しか借りていないという松市に、三両を出せと迫ったこと。
その家に三両などあるはずがないと、ひと目でわかっていたこと。
おかしいと思いながら、高い手付けを懐へ入れたこと。
路地へ置かれた荷車。
自分を借金取りと知っていた博徒。
指図役の声。
――辰も残すな。
あの一言を思い出した瞬間、傷とは別の冷たさが腹の底へ戻ってきた。
はめられた。
自分の名も、顔も、悪党としての評判も、すべて襲撃を隠すために使われた。
辰は、自分が人を利用する側だと思っていた。
実際には、銀を少し余計に見せられただけで、相手の望んだ場所へ歩いていった。怪しいと気づきながら、自分ならうまく立ち回れると高をくくった。
喜助にも、番人にも言われていた。
後ろ盾のない半端者ほど、使い捨てにしやすい。
その言葉どおりになった。
玄庵が傷へ薬を塗った。苦い薬草の匂いが、血の匂いより強くなる。
辰の頭に、太吉の姿が浮かんだ。
柵のそばへ蹴り飛ばされ、胸を押さえて丸くなった小さな体。
傷の痛みに耐えながら、辰は松市と太吉のことを尋ねた。
玄庵は手を動かしたまま、二人とも生きていると答えた。
松市には怪我がない。太吉は胸を強く打ち、しばらく痛みが残るが、骨は折れていない。命に別状もないという。
その言葉を聞いた途端、辰の腹の奥に張っていたものが少し緩んだ。
息が、先ほどより深く入った。
玄庵は、その変化を見ていた。
借金を取り立てに行った男が、なぜ借りのある松市より先に、子どもの無事を気にするのか。口には出さなかったが、玄庵の目には、そうした問いが浮かんでいた。
辰は、その目から顔をそらした。
自分でも、うまく説明できない。
松市を脅したことを悪いとは思っていなかった。借りがあるなら、取り立てに来る者がいる。それが町の裏の決まりだった。
だが、太吉には関係がない。
父親の借りも、武家の争いも、襲撃者の都合も、太吉のものではなかった。
大人同士なら殴り合えばよい。
子どもを蹴るのは違う。
辰の中にあったのは、その程度の線だった。
立派な道理ではない。
それでも、博徒が太吉の口を塞ごうとしたとき、その線を踏みにじられたような気がした。
玄庵は新しい布を巻きながら、松市から聞いた話を確かめるように、辰へいくつか尋ねた。
松市を壁へ押しつけたのは事実か。
辰は否定しなかった。
子どもの前で腕を捻り上げたのも事実か。
それも否定できない。
それでも、子どもを蹴ってはいない。
辰が低くそう言うと、玄庵の指が一瞬だけ止まった。
すぐに布を巻く手は動き始めたが、その目には何かを測る色があった。
玄庵は、辰を善人だとは思わなかった。
むしろ、悪党だとはっきり言った。
弱い者を選んで脅し、隠し事を銭に換え、番屋へ何度引かれても同じ道へ戻る。ろくな男ではない。
辰には言い返す言葉がなかった。
玄庵の言うことは、どれも事実だった。
ただし、襲撃を仕組んだ者たちは、その辰よりもさらに筋が悪い。
人を罪の置き場として用意し、用が済めば殺す。子どもまで巻き込んでも、段取りが崩れることだけを恐れている。
玄庵は辰の傷を見ながら、二つの悪党の違いを考えているようだった。
辰は人を脅す。
だが、自分の目の前で子どもが蹴られれば、損得を忘れて割って入る。
それは善心と呼べるほど立派なものではない。
それでも、人間の中身がすべて腐っているわけでもなかった。
手当てを終えた玄庵は、血に濡れた布を桶へ落とした。
水面に新しい赤が広がる。
「悪党だが、捨てるには少し惜しい」
玄庵は独り言のように言った。
拾われるほど落ちぶれてはいない、と辰は返したかった。
しかし、玄庵は辰を拾ったのは自分ではないと告げた。
あの夜、辰をここまで運んだのは松市と長屋の者たちだった。
倒れた荷車を皆で起こし、転がった樽を下ろした。古い筵を荷台へ敷き、意識を失った辰を載せた。歪んだ車輪がひどい音を立てるため、途中で何度も辰を下ろし、車軸へ水を掛けながら押してきたという。
辰は、その話をすぐには信じられなかった。
長屋の者にとって、本所の辰は厄介者でしかない。
番屋へ何度も引かれ、借りのある者を見つけては夜中に戸を叩く。そのような男を、なぜ皆で助けたのか。
答えは太吉だった。
血を流す辰を置いていこうとする者へ、太吉が何度も言ったという。
辰が助けてくれた。
辰がいなければ、もっとひどいことになっていた。
子どもの言葉に松市が動き、松市が荷車を起こすと、長屋の者たちも手を貸した。
辰は目を閉じた。
自分は太吉を助けたつもりではなかった。
博徒が気に食わなかっただけだ。自分を罠にかけた者たちへ腹を立てただけだ。町人姿の男と女を逃がしたのも、襲撃者の思いどおりになるのが癪だったからである。
それでも、太吉には辰が助けたように見えた。
その言葉は、褒められることに慣れていない辰には重すぎた。
どこへ置けばよいのかわからず、胸の奥へ押し込むしかなかった。
夜が白み始めるころ、辰は再び眠りへ落ちた。
次に目を覚ましたとき、障子の向こうでは人の声がしていた。
玄庵の診療所には、朝から患者が来る。
熱を出した子どもを背負う母親。仕事中に指を切った大工。咳の止まらない年寄り。腹の大きな女房を連れ、落ち着かぬ顔で廊下を歩く人足。
玄庵は、誰にも愛想を振りまかなかった。
泣く子には口を開けろと叱り、酒臭い男には薬より先に酒をやめろと言う。薬代を持たぬ女が何度も頭を下げると、玄庵は面倒そうに薬包を押しつけ、次に来るとき井戸の水でも汲めばよいと追い返した。
口は悪い。
だが、本当に追い返された者はいなかった。
辰は奥の部屋へ横になり、障子越しに患者の声を聞いていた。
その中には、賭場で見たことのある男もいた。以前、辰が借りを取り立てた職人もいた。番屋の前で亭主を返してくれと泣いていた女房の声も聞こえた。
町の表と裏は、別々に存在するものではない。
昼間、真面目に荷を担ぐ男が、夜には賭場へ行く。子どもの薬代を借りた者が、その穴を埋めるために店の銭へ手をつける。
人が悪くなる前には、たいてい何かが足りなくなる。
米が足りない。
銭が足りない。
仕事が足りない。
誰かに話を聞いてもらう時間さえ、足りないことがある。
辰はこれまで、その足りなくなった場所を見つけ、指を差し入れて銭を抜いてきた。
玄庵は、同じ場所へ薬を置いていた。
その違いが、寝ている辰には妙に目についた。
三日目、辰は壁へ背を預け、しばらく起きていられるようになった。
五日目には、自分の右手で粥を食べた。
七日目の朝には、玄庵に支えられながら、廊下を端まで歩いた。
傷の熱は少しずつ引いていったが、腕を動かすたび、肩の内側で何かが引きつった。
玄庵は布を替えるたび、辰の運がよかったと言った。
刃があと指二本、首寄りへ入っていれば助からなかった。血の太い道を断たれていれば、松市たちが荷車を起こしている間に死んでいた。
生き残ったのは、辰が強かったからではない。
斬った男の刃が、わずかに外れたからだった。
松市が、脅された恨みより太吉を助けられた恩を選んだからだった。
長屋の者が戸を開け、荷車を起こしたからだった。
玄庵が夜中にもかかわらず、血にまみれた辰を受け入れたからだった。
どれかひとつでも欠けていれば、辰の命はあの路地で途切れていた。
傷の痛みが弱くなるほど、そのことが辰の胸へ重く残った。
もし町人姿の男と女が殺されていたら、どうなっていたか。
翌朝、路地には二人の死骸と本所の辰が残される。
松市から三両を取り立てようとして騒ぎを起こし、通りかかった二人まで斬った。そういう話を作られたに違いない。
辰の懐からは、依頼人に渡された銀が出てくる。
番屋にとっては、十分な証拠となる。
辰が何を言っても、普段の素行がその言葉を潰す。盗みも脅しもしてきた男である。今度だけは違うと訴えても、信じる者はいない。
牢へ入れられ、誰が仕組んだのかも知らぬまま、罪をすべて背負わされる。
死罪になっていたかもしれない。
その未来は、ほんの紙一枚ほどの違いで、現実にならなかっただけだった。
十日余りが過ぎ、辰は玄庵の家を出た。
まだ左腕を胸元へ吊り、着物の袖も満足に通せない。それでも、病人たちの呻きや子どもの泣き声を聞きながら、いつまでも寝ていることに耐えられなかった。
自分の部屋へ戻ると、すべてが出たときのまま残っていた。
畳んでいない夜着。
飲み残した水。
土のついた草履。
壁際には、賭場で使うつもりだった骰子が転がっている。
襲撃の夜までの辰が、部屋の中で帰りを待っていたようだった。
辰は畳へ腰を下ろし、玄庵から返された銭包みを開いた。
あの二人から受け取った手付けである。
銀は、何も知らない顔をして包みの中に収まっていた。
これだけあれば、傷が治るまで働かずに暮らせる。米も買える。酒も飲める。賭場へ持っていけば、さらに増やせるかもしれない。
以前の辰なら、ためらわなかった。
だが、銀へ触れると、博徒に蹴られた太吉の体が浮かんだ。
続いて、指図役の声が蘇る。
――辰も残すな。
この銀は、仕事の手付けではない。
辰を罠へ誘い込み、最後には殺すための餌だった。
辰は包みの紐を締めた。
翌日、それを玄庵のところへ持っていった。
薬代として渡すには多すぎる。玄庵は重みを確かめただけで、すぐにそう見抜いた。
辰は余った分を松市へ渡してくれと頼んだ。
自分で届ければよいと言われたが、辰には松市の家へ行く気になれなかった。太吉に礼を言われるのも困る。松市から恨み言を言われる方が、まだ気が楽だった。
何より、血の匂いが染みついた銀を、自分の手元へ置いておきたくなかった。
玄庵は、その気持ちも見抜いていたらしい。
だが、口には出さなかった。
松市には辰からだと言わずに渡す。それだけを告げ、銭包みを薬箱の脇へ置いた。
傷が塞がり、腕が少し動くようになると、辰は元の暮らしへ戻ろうとした。
賭場の裏へ顔を出す。
煮売り屋の軒下で、以前の仲間と酒を飲む。
借りを返さぬ職人のところへ行ってくれと頼まれる。
町は何も変わっていなかった。
辰が死にかけたことなど知らぬ顔で、いつものように動いている。
それなのに、辰だけが以前と同じようには動けなかった。
取り立てを頼んできた男が、相手の名と住まいを告げる。
以前なら、それだけ聞けば十分だった。
今は、別のことが頭へ浮かぶ。
その家には誰がいる。
なぜ借りた。
本当に払えるだけの銭があるのか。
頼みを持ってきた男は、辰に何を隠している。
考えているうちに、相手の顔が不審そうに変わる。
斬られて臆病になったのか。
口には出さなくても、その目がそう言っていた。
辰は頼みを断り、賭場の裏を離れた。
背後から笑い声が聞こえた。
本所の辰も、もう終わりだ。
そんな言葉まで混じっていたように思えた。
以前なら引き返し、笑った男の襟をつかんだだろう。
その日は、振り返らなかった。
腹が立たないわけではない。
ただ、その男を殴ったあと、自分がまた以前の辰へ戻ることの方が恐ろしかった。
喜助のそば屋へも足を運んだ。
夕方前の店には客が少なく、釜から立つ湯気が暖簾の内側へ薄く溜まっていた。出汁と醤油の匂いを吸い込むと、何日も薬草の匂いに包まれていた鼻が、ようやく町へ戻ったように感じられた。
喜助は、吊られた辰の左腕をひと目見た。
何があったとも、誰に斬られたとも尋ねない。
ただ、いつものようにそばを茹でた。
笊を振る音。
丼へつゆを注ぐ音。
刻んだ葱を載せる指の動き。
辰は、その一つ一つを黙って見ていた。
喜助は、使い捨てにされると言っただろう、とも言わなかった。
その沈黙の方が、辰にはこたえた。
自分なら、相手の失敗を見れば必ず口にする。以前言ったとおりになったと、得意げに笑う。
喜助は何も言わない。
言わなくても、辰自身がわかっていることを知っているのだ。
出されたそばをすすった。
熱いつゆが喉を通り、空になっていた腹へ落ちていく。玄庵のところで食べた粥より濃い味が、体の中へ染みた。
食べながら辰は、別の名で生きることができるのかと、ふと喜助へ尋ねた。
なぜ、そのような問いが口から出たのか、自分でもわからなかった。
喜助はすぐには答えなかった。
釜の中で泳ぐそばを箸でほぐし、浮いた泡を小さな網ですくっている。店先を通った魚売りの声が遠ざかってから、ようやく口を開いた。
名を替えただけでは、腹の中までは替わらない。
けれど、新しい名で呼ばれ続けていれば、いつかその名に似合う人間になろうとすることはあるかもしれない。
喜助は、それ以上説明しなかった。
辰も聞き返さなかった。
丼の中に残った葱を箸で拾いながら、その言葉だけを胸の中で転がした。
日が過ぎても、答えは出なかった。
辰は本所の町を歩いた。
同じ川が流れ、同じ橋が架かっている。朝には魚売りが声を張り、昼には荷車が道を塞ぎ、夜になると賭場の灯が細い路地へ漏れる。
何も変わっていない。
だが、辰の目に映るものは変わり始めていた。
以前から、人の弱みはよく見えた。
嘘をつく前に浅くなる息。
銭を隠している者が懐へ添える手。
逃げ道を探す目。
それに加えて今は、その男の背後にあるものまで目へ入る。
戸口から父親の帰りを待つ子ども。
店の奥で帳面と米櫃を見比べる女房。
仕事を得られず、昼間から道端へ座る職人。
辰が脅して銭を取れば、その者たちの明日の飯まで減る。
見えなかったのではない。
見ないようにしていたのだ。
見れば、手が鈍る。
手が鈍れば、本所の辰として食っていけない。
だから辰は、相手の弱みだけを見て、その後ろにある暮らしを見ないようにしてきた。
しかし、いったん見えてしまったものを、再び消すことはできなかった。
だからといって、辰が善人になったわけではない。
腹が減れば銭が欲しい。
馬鹿にされれば殴りたい。
賭場の前を通れば、懐の銭を増やせるような気がする。
自分の中にある卑しさは、傷が塞がった程度では消えなかった。
ただ、以前と同じように手を伸ばそうとすると、あの夜の声が蘇った。
――辰も残すな。
あの者たちは、辰の卑しさを使った。
銭に目が眩み、自分だけは相手を出し抜けると思う心を利用した。
また同じ生き方へ戻れば、次こそ命は残らない。
それはわかっていた。
わからないのは、ほかにどう生きればよいかということだった。
大工の腕はない。
魚を見る目も、米を量る商いの才もない。
朝から晩まで同じ仕事を続ける辛抱が、自分にあるとも思えない。
身につけたものといえば、人の嘘と弱みを見抜く目、裏道を覚える頭、逃げるべき時刻を嗅ぎ取る鼻くらいである。
その力を使えば、また悪党へ戻る。
使わなければ、辰には何も残らない。
ひと月余り、辰はその間をさまよった。
春を待つにはまだ早いころだった。
川風には夜ごと冷たさが増し、長屋の軒には薄い霜が降りた。朝、橋板を踏むと、乾いた音がする。粉屋の石臼は暗いうちから回り、そば屋の釜から上がる湯気だけが、町の中で温かな色をしていた。
ある夕方、辰の住まいへ玄庵の使いが来た。
近所の小僧だった。
玄庵先生が、腕の具合を見せに来いと言っている。
それだけを伝え、小僧は走り去った。
辰は左腕を回してみた。
肩には引きつる痛みが残るが、日々の動きに困るほどではない。わざわざ呼びつけて確かめるほどの傷では、もうなかった。
別の用がある。
辰はそう思った。
日が沈んでから、玄庵の家へ向かった。
風のない夜だった。
川面は黒い板のように動かず、両岸の灯を細く映している。煮売り屋からは大根を煮る匂いが流れ、遠くでは夜回りの拍子木が鳴っていた。
玄庵の家へ着くと、表の戸は半分閉じられていた。
診療を待つ者の姿はない。
中からは薬草を煎じる匂いと、炭の熱で乾いた木の匂いがした。
辰が入ると、玄庵は火鉢の前に座っていた。
まず傷を見せろと言われた。
辰は着物の襟を緩め、左腕を上げた。
玄庵の指が、肩に残る傷跡をたどる。赤黒い筋はまだ盛り上がっていたが、熱はなく、傷口も閉じている。
玄庵は、もう開く心配はないと判断した。
辰は着物を戻しながら、傷を見るためだけに呼んだのではないだろう、と考えていた。
玄庵はすぐに本題へ入らなかった。
火箸で炭を寄せ、灰の下へ隠れていた赤い火を出す。鉄瓶の口から細い湯気が上がり、二人の間をゆっくりと通り過ぎた。
やがて玄庵は、辰へ会いたがっている者がいると告げた。
あの襲撃の夜、町人姿をしていた男だった。
名は言わない。
何のために会うのかも話さない。
ただ、場所と刻限だけが書かれた紙を、火鉢の横へ置いた。
辰は、その紙へすぐには手を伸ばさなかった。
白い紙の上にある墨の文字が、暗い部屋の中で妙にくっきりと見える。
また罠かもしれない。
今度は銀の代わりに、知りたいという気持ちを餌にしているのかもしれない。
一度はめられた男が、同じように呼び出しへ応じれば、今度こそ笑い話にもならない。
だが、行かなければ、何もわからない。
なぜあの男と女が襲われたのか。
誰が辰を罠へ入れたのか。
自分を知っている者たちが、いまもどこかで生きている。再び辰を利用しようとするか、口を塞ごうとするかもしれない。
知らないまま本所に残ることも、別の形で罠の中へ居続けることだった。
玄庵は、行けとも、やめろとも言わなかった。
以前の辰なら、誰かに決めてもらう必要などないと強がっただろう。
いまは、自分の判断にさえ疑いを持っている。
銭を見れば、目が曇る。
面子を潰されれば、危険でも引き返せなくなる。
自分の考えだと思っていたものが、他人に動かされているだけかもしれない。
辰は火鉢の炭を見た。
赤い火は灰の下で静かに燃えている。
あの夜の路地でも、松市の家の行灯は暗かった。太吉の顔は、半分しか見えなかった。
それでも、助けを求める子どもの目だけは見えた。
何をして生きるのかは、まだわからない。
だが、何も知らないまま、以前の辰へ戻ることだけはできなかった。
辰は紙を取った。
玄庵は顔色を変えなかった。
辰が自分で選ぶまで、待っていたのだろう。
紙を懐へ入れると、左肩の傷がわずかに引きつった。
あの夜の痛みを忘れるなと、体から言われたような気がした。
辰は立ち上がり、戸口へ向かった。
玄庵は、背後から辰の名を呼んだ。
振り返ると、火鉢の向こうに座る玄庵の顔は、灯の影で半分隠れていた。
「今度は、手付けを見てから返事をするな」
それだけだった。
辰は、わかっているとは答えなかった。
以前なら、そう言って強がったに違いない。
だが、自分が本当にわかっているかどうか、もう簡単には信じられなかった。
戸を開ける。
外には、本所の夜が広がっていた。
冷たい空気が、薬草の匂いの染みついた着物の中へ入ってくる。川の方から湿った風が吹き、橋を渡る者の提灯が、暗い道をひとつずつ動いていた。
辰は懐の紙を上から押さえた。
銀を受け取ったあの夜とは違う。
今度は、自分で行くと決めた。
それでも、胸の中に恐れがないわけではなかった。
恐れを知らなかったのではない。
以前の辰は、恐れていることを認められなかっただけだった。
辰は指定された場所へ向かい、ゆっくりと歩き始めた。
このとき、まだ本所の辰は生きていた。
だが、その名で本所の道を歩く夜は、もう残り少なくなっていた。
第六場 清兵衛という名
呼び出しの場所は、深川の料理屋だった。
表には軒提灯が並び、格子戸の向こうから三味線の音が漏れている。酒の入った客の笑い声が通りまで届き、女中たちは湯気の立つ膳を抱えて、忙しく座敷を行き来していた。
だが、辰が入ったのは表の戸ではない。
川に面した裏手へ回り、低い船着きから中へ入った。
水際の板は夜露で濡れ、足を置くとわずかに軋んだ。戸の内側には行灯を持った男がひとり待っていた。男は辰の名も用向きも確かめず、ただ頭を下げ、細い廊下を先に歩いた。
料理屋の賑わいは、壁一枚隔てたところにある。
盃の触れ合う音も、女の笑い声も聞こえている。それなのに、辰が通された廊下には人の気配がなかった。
香の匂いが薄く漂い、磨かれた板に行灯の火が細長く映っている。
廊下の突き当たりで男が膝をつき、襖を開いた。
座敷には四人がいた。
正面に座っているのは、襲撃の夜に町人姿をしていた男である。
あの夜は地味な着物に笠をかぶり、懐の短い刃で浪人の刀を受けていた。いまは落ち着いた色の小袖をまとい、脇には刀が置かれている。
派手な身なりではない。
それでも、部屋の中央にいる男より先に動こうとする者は、ひとりもいなかった。
傍らには、辰の知らない侍が座っている。座敷の隅には、目立たない着物を着た男が二人控えていた。
いずれも、町の地回りや賭場の用心棒とは違う。
脅すために睨みつけることもなく、強さを見せるために胸を張ることもない。ただ、どのようなことが起きても、決められたとおりに動ける者の静けさを持っていた。
辰は座敷へ入り、襖が閉まる音を聞いた。
逃げ道は背後にひとつ。
窓はなく、庭へ出る戸も見当たらない。隅にいる二人が動けば、辰が廊下へ戻る前に取り押さえられる。
傷は塞がっているとはいえ、左腕にはまだ引きつる痛みがあった。
戦えば勝てない。
そのことを認めても、以前のように腹は立たなかった。
勝てぬ相手を見て勝てると思い込むことが、どれほど危ういかを、辰はすでに知っていた。
部屋の中央には火鉢があり、灰の中で炭が赤く燃えている。
膳も酒も出されていない。
料理屋の座敷でありながら、客をもてなすためのものは何ひとつ置かれていなかった。
辰は示された場所へ座った。
町人姿だった男は、すぐには口を開かなかった。
辰の顔を眺め、次に左肩へ目をやった。傷がどれほど残っているか、自分の前へ呼び出しても倒れないかを確かめているようだった。
男は、襲撃の夜のことについて短く礼を述べた。
声音に温かさはなかった。
命を救われた者が恩人へ頭を下げる場ではないらしい。必要な事実を確かめ、その結果に見合う処置を決めるための座敷だった。
辰も、礼を受け取るような顔はしなかった。
あの男を助けたつもりなどない。
太吉を蹴った博徒が気に食わなかった。自分を罠へはめた者たちの段取りを壊したかった。
その結果として男と女が逃げたにすぎない。
辰はそう考えていた。
やがて傍らの侍が、あの夜の裏側を説明した。
襲撃を受けた男は、幕府の中枢に近い場所にいる人物だった。
辰には、役目の名を聞いても、その重さまではわからない。ただ、江戸城へ日常的に出入りし、諸藩や奉行所の動きにも口を差し入れられる立場だという。
一緒にいた女は、その男の囲い者だった。
だが、ただの色事で狙われたわけではない。
女のもとには、敵対する者たちの弱みへつながる書付が置かれていた。城中での不正な働きかけ、商人から流れた銭、表へ出せぬ取引。
女と男を同時に消し、書付を奪えば、襲撃を仕組んだ側は証拠も口もまとめて塞ぐことができる。
そこで浪人崩れや博徒を銭で集め、襲撃が行われた。
辰を松市の家へ送ったのも、その段取りのひとつだった。
名の売れた借金取りが夜中に揉めていれば、長屋の者は戸を開けない。騒ぎが起きても、本所の辰が原因だと思う。
男と女を殺したあとには、辰も斬る。
三両という架空の借りと、懐へ入れられた高い手付けが残る。死骸のそばに本所の辰が転がっていれば、町の揉め事として筋書きを作ることができた。
辰が玄庵の家で考えたとおりだった。
改めて他人の口から聞かされると、自分がどれほど都合のよい駒だったかが、いっそう鮮明になった。
悪党として名が売れている。
番屋にも顔を知られている。
後ろ盾がない。
死んでも、誰も深く調べようとはしない。
自分が大きな男だと思っていたことの一つ一つが、相手にとっては使いやすい条件でしかなかった。
辰は火鉢の灰を見ていた。
腹が立たないわけではない。
襲撃を仕組んだ者たちへも、自分自身へも腹が立った。
だが、以前のように声を荒らげても、何も変わらない。
この座敷にいる者たちは、辰が怒ることまで承知しているだろう。怒鳴り、襖を蹴り、斬られた肩を押さえながら飛び出せば、やはり本所の辰はその程度の男だったと確かめられるだけだった。
辰は黙って話を聞いた。
その沈黙を、正面の男はじっと見ていた。
襲撃の夜から、状況はすでに動いている。
逃がした女の持っていた書付は、男の手へ渡った。その内容を使い、敵方の何人かは役目を外されることになる。
だが、すべてが終わったわけではない。
襲撃を命じた者の中には、まだ手の届かぬ場所にいる者がいる。逃げた浪人や博徒の中にも、辰の顔を覚えている者がいた。
辰をそのまま本所へ置けば、遠からず命を狙われる。
敵方に捕らえられ、襲撃の夜に何を見たのか聞き出されるかもしれない。再び銭を握らされ、今度は反対側の手先として使われる可能性もある。
正面の男にとって、辰を野放しにはできなかった。
口を塞ぐだけなら簡単である。
辰は、この料理屋へ入ったことを誰にも話していない。裏の船着きから運び出され、川へ沈められても、翌朝には誰も居場所を知らない。
襲撃の夜に助けた相手から、今度は自分が始末される。
そうなっても不思議ではなかった。
辰は、座敷の隅にいる二人を見た。
二人は動かない。
それでも、命令が下れば迷わず立つことはわかった。
不思議と、恐ろしさは以前ほど大きくなかった。
一度死にかけたためではない。
自分が何も知らぬまま罠に入り、最後まで利口なつもりでいた夜より、いまの方が状況を見られている。
殺されるなら、せめてなぜ殺されるのかはわかる。
それだけでも、あの夜とは違った。
そこへ玄庵が入ってきた。
辰が座敷へ来てから、しばらく別室にいたらしい。薬草の匂いが着物へ染みつき、料理屋の香の中でも、近づけばすぐにわかった。
玄庵は正面の男へ頭を下げたあと、辰の脇へ座った。
辰をかばうようなことはしなかった。
善人ではない。
弱い者を脅し、銭を取り、町の裏を歩いてきた悪党である。
玄庵は、辰についてそう述べた。
辰は横から玄庵の顔を見た。
自分の生死が決められようとしている場所で、もう少しましな言い方はないのかと思った。
だが、玄庵は事実を飾らなかった。
そのうえで、悪党としては使い道があるとも言った。
町の裏道を知っている。
人が嘘をつくときの目を見分ける。
弱みを見つけるのが早く、逃げ道を探すことにも慣れている。
何より、子どもへ手を出す者を見過ごせない線が、まだ一本だけ残っている。
立派な人間にはなれなくとも、置き場所を間違えなければ役に立つかもしれない。
玄庵は、そこまで言って口を閉じた。
座敷には再び、表の三味線だけが聞こえた。
曲が終わったのか、短い拍手と笑い声が起こる。女中が廊下を通り、膳の椀がかすかに触れ合った。
その賑わいのすぐ隣で、辰の名と命が量られていた。
正面の男は火鉢へ目を落とし、長いあいだ考えているように見えた。
辰は、自分が選ばれるのを待つつもりはなかった。
生かされる代わりに、何をさせるのか。
自分の目と耳を使わせるつもりなら、誰のために、どこまで使うのか。
辰は、以前なら尋ねなかったことを確かめようとしていた。
金額だけを聞いて仕事を引き受けた結果が、左肩の傷として残っている。
同じ間違いは繰り返せない。
正面の男は、辰へ褒美を与えるつもりはないと告げた。
罪を見逃してやるという話でもない。
辰がこれまでしてきたことは消えない。襲撃の夜にひとつ善い結果を残したからといって、過去の悪事と帳消しになるわけでもなかった。
ただ、本所の辰という男を、このまま江戸に置くことはできない。
敵から守るためでもあり、辰を敵へ渡さぬためでもある。
男が示した道は、ひとつだった。
本所の辰という名を捨てる。
江戸を離れる。
そして、別の名で生きる。
火鉢の中で、炭の端が小さく崩れた。
正面の男は、新しい名を口にした。
「清兵衛」
辰は顔を上げなかった。
その名が自分へ向けられたものだとわかるまで、わずかな間があった。
清兵衛。
聞き覚えのない名である。
自分の中のどこにも、その呼び名へ応える部分がない。
本所の辰という名は、ろくな名ではなかった。
親から大切に与えられた名でもない。町の半端者たちが呼び始め、喧嘩や脅しを重ねるうち、本人よりも先に歩くようになった名である。
それでも、長いあいだ自分のものだった。
番屋で呼ばれた。
賭場で呼ばれた。
逃げるときにも、殴られるときにも、誰かがその名を叫んだ。
捨てて惜しい名ではない。
だが、捨てろと言われてすぐに手放せるほど、軽くもなかった。
本所の辰を捨てれば、これまでの自分が消える。
同時に、これまでの自分以外には何も持っていないという恐れがあった。
辰は膝の上の手を見た。
この手で何人の襟をつかんだか。
この目で、どれほど人の弱みを探したか。
清兵衛という男が、その手と目をどう使うのかは、まだわからない。
正面の男は返事を急かさなかった。
名を与えることは、赦すことではない。
その名には、見えない縄がついている。
敵方から守るための通行手形であり、勝手に元の暮らしへ戻ることを許さぬ首輪でもある。
辰にも、それはわかった。
それでも、ほかに道はない。
本所へ残れば、敵に殺される。
逃げれば、何も知らぬ土地で追われ続ける。
元の暮らしへ戻っても、いずれまた銭と面子に動かされ、同じ罠へ入る。
新しい名が新しい人間を作るわけではない。
喜助もそう言っていた。
だが、新しい名で呼ばれるうち、その名に似合う人間になろうとすることはあるかもしれない。
辰は、火鉢の向こうにいる男を見た。
やがて、小さく頷いた。
その場で本所の辰が死んだわけではなかった。
ただ、辰は初めて、自分の名を捨てる方へ一歩を踏み出した。
出立は、それから七日後と決められた。
行き先は信州だった。
江戸から遠く、山と宿場に囲まれた土地である。中山道を行き、佐久を越えた先にある穀物問屋へ入ることになった。
辰――まだ心の中ではそう名乗っている男には、二通の書付が用意された。
ひとつは、道中で改めを受けたときに示す往来手形だった。そこには江戸の町人、清兵衛という名が書かれている。
もうひとつは、厚い紙へ包まれ、固い封を施された紹介状である。
宛先は信州の問屋主人。
封には見慣れぬ印が押され、開ければすぐにわかるようになっていた。清兵衛自身が中身を見ることは許されていない。
何が書かれているのか、辰は尋ねなかった。
尋ねても教えられないだろう。
ただ、その手紙一通が、信州で自分を生かしも殺しもすることだけはわかった。
出立の前夜、辰は本所の町を歩いた。
長屋の間を抜け、番所の前を通り、竪川に架かる橋の上で足を止める。
水面には、町の灯が揺れていた。
以前、この橋で自分の顔を見ようとしたことがある。
そのときも、川に映ったのは歪んだ火の色だけだった。
今夜も、自分の顔は見えない。
辰は欄干へ手を置き、流れていく灯を見ていた。
本所の辰が死んだという噂は、辰が江戸を出たあとに流されることになっている。
襲撃の夜に負った傷がもとで死んだ。
死骸は人知れず川へ流された。
話す者によって、死に方は少しずつ変わるだろう。
松市と太吉、長屋の者たち、玄庵には、生きていることを口外しないよう話が通されていた。
本所の辰を嫌っていた者は、ようやく死んだかと笑う。
借りを取り立てられた者は、胸を撫で下ろす。
賭場の仲間は、酒を飲みながら二、三日は思い出話をする。
やがて、別の騒ぎが起これば忘れる。
人ひとりの名が町から消えるのに、それほど長い時間はかからない。
辰は、自分がいなくなったあとの本所を想像した。
寂しいとは思わなかった。
だが、腹の中に小さな空洞ができたような気がした。
翌朝、夜明け前に江戸を発った。
見送る者はいなかった。
玄庵から渡された薬包と、往来手形、封をされた紹介状。着替えをひと組と、わずかな路銀。
それが清兵衛の持ち物のすべてだった。
日本橋を離れ、街道へ出る。
朝の江戸には、白い靄がかかっていた。遠くで寺の鐘が鳴り、魚河岸へ向かう荷車の音が響いている。
歩きながら、辰は何度も後ろを振り返りそうになった。
だが、一度も振り返らなかった。
往来手形には、清兵衛と書かれている。
関所でその名を呼ばれたとき、返事が遅れた。
役人は不審そうに顔を上げた。
辰は慌てて頭を下げ、自分の名を忘れるとは間抜けな男だと笑って取り繕った。
関所を離れてからも、耳の奥に新しい名が残った。
清兵衛。
まだ、借り物の着物のようだった。
肩へ合わず、袖の長さも違う。歩くたび、どこかが体へ擦れる。
それでも、脱いで捨てることはできない。
道を重ねるうち、江戸の平らな町は遠ざかり、景色に山の影が増えていった。
朝夕の冷え込みは厳しくなり、宿場では馬の汗と藁、焚き火の煙が混じった匂いがした。
信州へ入るころには、空の色まで江戸と違って見えた。
山は近く、夕暮れが早い。
日が稜線へ触れると、村も畑も急に青い影へ沈んでいく。夜になると空には星が多すぎるほど現れ、川の音と獣の声だけが残った。
清兵衛が奉公することになったのは、佐久の宿場に近い穀物問屋だった。
店の裏には大きな蔵が二つあり、そば、豆、粟、稗が俵に詰められて積まれている。農家から集めた穀物を選り分け、宿場の馬で江戸や甲州へ送る商いをしていた。
店の主人は、五十を過ぎた寡黙な男だった。
清兵衛から封じた手紙を受け取ると、人払いをして中を読んだ。
読み終えても、驚いた顔はしなかった。
手紙を火鉢へ入れ、灰になるまで見届けた。それから清兵衛の顔を、長いあいだ眺めた。
手紙に何が書かれていたのかは、最後まで明かさなかった。
ただ、今日からこの店では清兵衛と名乗ること、初めは蔵の仕事をすること、その二つだけを告げた。
新しい名で呼ばれ、清兵衛はまた返事を遅らせた。
主人は気づいていたが、何も言わなかった。
奉公は、蔵の掃除から始まった。
朝は暗いうちに起き、戸を開ける。俵を運び、散った穀物を掃き、鼠に食われた袋を繕う。荷が着けば数を確かめ、馬方へ水を出す。
江戸で悪さをしていたころとは違い、毎日ほとんど同じ仕事が続いた。
清兵衛は初め、その暮らしを退屈に思った。
人の弱みを探し、相手の裏をかき、番所の目を避けて歩く方が、自分には似合っているような気がした。
だが、蔵の中にも、町の裏と同じものがあった。
帳面には百俵と書かれているのに、実際には九十八俵しかない。
雨の日に運ばれたそばの実が、乾いた俵へ混ぜられている。
馬方は荷を待たされるため、店の裏で博打を始める。負けた者は、荷の一部を抜いて銭に換える。
農家から買い取るとき、量りをわずかに軽く見せる手代がいる。その手代は、浮いた分を別の商人へ流していた。
江戸の賭場や荷揚げ場で見てきたものと、何も変わらない。
人が集まり、銭と荷が動けば、必ず隙ができる。
以前の辰なら、その隙を見つけて自分の懐を満たしただろう。
清兵衛は、しばらく同じ考えをした。
手代の弱みを握り、口止め料を取ることもできた。馬方の荷抜きを見逃し、分け前を受け取ることもできる。
その考えが浮かぶたび、左肩の傷が引きつるような気がした。
辰も残すな。
あの声が、山に囲まれた信州までついてきていた。
清兵衛は、見つけた不正をすぐ主人へ告げなかった。
何日も蔵へ入り、誰がいつ荷へ触れるのかを見た。馬方が待たされる時刻と、手代が帳面を閉じる時刻を確かめた。農家から届く俵の印と、江戸へ送られる荷札を見比べた。
それから、荷札の付け方を変えるよう主人へ進言した。
俵の数だけでなく、入荷した日と村の印を記す。蔵へ入れた者と、出した者の名を別々に残す。
馬方には着いた順に札を渡し、荷を積む時刻を先に知らせる。待ち時間が減れば、裏で博打をする者も減る。
濡れた穀物は乾いたものへ混ぜず、別の場所で広げて乾かす。手間は増えるが、江戸へ着いたあと黴が出て、荷を丸ごと安く買われることを防げる。
主人は初め、江戸から来た蔵働きの話を黙って聞いていた。
すぐには採らなかった。
だが、清兵衛が数と損を具体的に示すと、一部だけ試すことを許した。
半年ほどで、蔵から消える俵が減った。
江戸へ送ったそばと豆の評判も上がった。
馬方が荷を運び終えるまでの日数が短くなり、余分に払っていた宿代も減った。
主人は清兵衛を、蔵の掃除から荷受けの役へ移した。
翌年には、農家から穀物を買い付ける手代に加えた。
清兵衛は、農家へ行くと家の中を見た。
俵の数だけではない。
土間に置かれた農具。囲炉裏に掛かる鍋。子どもの着物の継ぎ。納屋に残っている藁。
目の前の農家が、本当に売り急いでいるのか。
別の借りを隠しているのか。
作柄が悪いのに、よいふりをしているのか。
江戸で人の弱みを探していた目は、ここでも役に立った。
ただし、その弱みから銭を抜くのではない。
よいそばや豆を納める農家には、相場よりわずかに高く払った。その代わり、次の年も同じ質で納める約束を取った。
凶作で今すぐ銭を必要とする家には、次の収穫を担保に少し先払いをした。返せぬほど貸すことはせず、翌年まで働けるだけの種と食い扶持を残した。
甘い商いだと笑う者もいた。
だが、買い叩かれなかった農家は、よい品を別の問屋へ流さなくなった。店には、以前より質の揃った穀物が集まり始めた。
清兵衛は、善人になったわけではない。
約束を破る者には容赦しなかった。
嘘をついて二つの問屋から前金を取った百姓には、次の年から銭を渡さなかった。荷抜きを繰り返す馬方は、言い訳を最後まで聞いたうえで店から外した。
それでも、やり直す道だけは残した。
最初の過ちで、すべてを奪うことはしなかった。
自分にも、太吉と松市と玄庵が残した道があったからである。
三年が過ぎるころには、清兵衛は店の帳場へ座るようになっていた。
五年目には、主人が留守のとき、荷と銭の判断を任された。
七年目には、近くの農家や馬方たちが、店の主人ではなく清兵衛へ相談を持ち込むようになった。
畑の境をめぐる争い。
馬方同士の順番争い。
宿場で抜かれた荷。
博打で給金を失った奉公人。
年貢を納めるため、種に残す穀物まで売ろうとする百姓。
清兵衛は、話をすぐには決めなかった。
両方の言い分を聞き、周囲の者にも尋ねた。声の大きい者より、口を閉ざしている者の顔を見た。
江戸にいたころから、人の嘘はよく見えた。
信州へ来てからは、その嘘の後ろにある事情まで見るようになった。
悪意からつく嘘。
家族を守るための嘘。
面子を失いたくないための嘘。
それらを同じものとして裁けば、新しい争いが生まれる。
清兵衛は、役人ではなかった。
村役人でも、宿場の問屋役でもない。
それでも、人々は話を持ってきた。
清兵衛なら、片方だけを潰して終わりにはしない。
そう思われるようになっていた。
十年が過ぎるころには、佐久から小諸、上田へ向かう荷の流れにも、清兵衛の名が通るようになった。
粉屋は、よいそばの実が入ると先に知らせてくる。
馬方は、街道で妙な荷を見れば、清兵衛へ話す。
宿場の女中は、江戸から来た客が不審なことを口にすれば、問屋の小僧を使いに出した。
百姓、粉屋、馬方、旅籠、商人。
それぞれが持つ小さな話が、清兵衛のところへ集まるようになっていた。
清兵衛は、すべてを江戸へ送ったわけではない。
町や村の中で収められるものは、その土地で収めた。
役人を動かせば人が困る話もある。
大きな力を使えば簡単に片づく代わりに、関わりのない者まで巻き込むことがある。
どうしても土地だけでは収まらぬ話だけを選び、奉公先の主人を通じて江戸へ書き送った。
江戸から返事が来ることもあった。
初めのうちは短い指図だけだった。
やがて清兵衛は、何を調べろと言われる前に、自分の判断を添えるようになった。
この荷は止めず、行き先を見た方がよい。
この役人を動かせば、口を塞がれる。
この商人は悪事に加わっているのではなく、脅されて荷を出している。
その書付が江戸でどのように使われたのか、清兵衛にはわからない。
だが、しばらくすると、問題の役人が別の土地へ移されることがあった。怪しい荷を扱っていた商人が、急に店を閉じることもあった。
清兵衛の言葉が、遠く離れた江戸で人を動かし始めていた。
十二年目の春、奉公先の主人が清兵衛を奥の部屋へ呼んだ。
主人の髪は、清兵衛が来たころより白くなっていた。
部屋には、江戸から届いた一通の書状が置かれている。
封に押された印は、十二年前に清兵衛が運んできた紹介状と同じだった。
主人は中を読み、書状を清兵衛へ渡した。
そこには、短く、江戸へ戻る時が来たと記されていた。
命令の形をしていた。
だが、十二年前とは違った。
あのころの清兵衛には、行く場所も、選ぶ力もなかった。
いまは信州に仕事がある。
店には、清兵衛が整えた帳面と荷の仕組みがある。農家や馬方、粉屋からは、これからも話が持ち込まれるだろう。
江戸へ戻らず、この土地で暮らすこともできた。
主人も、命令だから行けとは言わなかった。
決めるのは清兵衛だと、その目が告げていた。
清兵衛は、すぐには返事をしなかった。
その日の夕方、ひとりで蔵へ入った。
積まれたそばや豆の俵から、乾いた土と穀物の匂いがする。梁の上では鼠が走り、戸の隙間から入る夕日が、空中の細かな埃を金色に照らしていた。
十二年前、初めて入った蔵である。
そのころの清兵衛は、名前を呼ばれても返事が遅れた。
蔵の掃除をしながら、いつまでこの田舎へ置かれるのかと腹を立てていた。
人の弱みを見つければ、すぐ銭に換えることしか知らなかった。
いま、蔵の中にあるものの多くは、清兵衛が人と人の間をつないで集めたものだった。
信州の者たちは、清兵衛を本所の辰とは知らない。
悪党だった過去も、襲撃の夜も知らない。
ただ、清兵衛として働き、清兵衛として争いを収め、清兵衛として店を支えた姿だけを見てきた。
借り物だった名には、十二年分の中身が入っていた。
清兵衛は、江戸へ戻ることを決めた。
信州で得たものを捨てるためではない。
ここで身につけた目と、人のつながりを、今度は江戸で使うためだった。
出立の日、主人は清兵衛を店先まで見送った。
奉公人や馬方、近くの農家の者たちも集まっていた。誰も大げさな別れの言葉を口にしない。
そばの実をひと袋持たせる者。
道中で食えと、炒った豆を包む者。
草鞋を余分に渡す者。
それぞれが、自分にできる形で清兵衛を送り出した。
清兵衛は四十を過ぎていた。
左肩には、古い刀傷が残っている。
若いころより口数は減り、人を見る目は深くなっていた。
本所の辰は、十二年前に江戸で死んだ。
少なくとも、町の噂の中ではそうなっている。
江戸へ戻る男は、もう辰ではなかった。
中山道を江戸へ向かって下る。
山の冷たい風が次第に弱くなり、道を行く者の言葉に江戸の訛りが増えていく。旅籠の飯も、街道で売られるものも変わっていった。
やがて遠くに、江戸の空が見えた。
煙が薄く重なり、その下へ数えきれぬ屋根が続いている。
十二年前、追われるように離れた町だった。
いまは、自分の足で戻ろうとしている。
清兵衛は街道の上で、しばらく江戸を眺めた。
懐には、奉公先の主人から託された書状がある。
背負った荷には、信州のそばの実と豆が入っている。
そして、十二年のあいだに得た、人と土地を見る目があった。
清兵衛は、江戸へ向かって歩き出した。
今度は誰かに動かされたのではない。
自分で戻ると決めた足だった。
第七場 亀戸へ移る火
五之橋の夜は、川面から少しずつ深くなっていった。
西の空には、まだ日暮れの名残が細く残っている。だが、竪川の水はもう黒く、橋を渡る者の提灯や、岸辺の家から漏れる灯を、流れに沿って長く引き延ばしていた。
昼のあいだ川を満たしていた掛け声は、すでにない。
荷を運び終えた舟が岸へ寄せられ、濡れた縄に繋がれている。荷揚げ場には空の荷車が残り、車輪の跡へ溜まった水が、薄い空の色を映していた。
ときおり、帰りを急ぐ小舟が橋の下をくぐる。
艪が水を押すたび、屋台の灯を映していた川面が崩れ、舟が過ぎれば、また何事もなかったように元へ戻った。
清兵衛の屋台には、仕事を終えた客が三人ついていた。
大工らしい男は道具箱を足元へ置き、丼を両手で包んでいる。川風に冷えた指を、そばの熱で温めているらしい。
その隣では、深川から戻ってきた船頭が、つゆの中へ沈んだ葱を箸で探していた。もう一人の若い職人は、立ったままそばをすすり、橋の向こうを何度も気にしている。
清兵衛は鍋の前に立ち、次のそばを茹でていた。
火は強すぎず、鍋の底で湯が静かに動いている。つゆの匂いが湯気とともに立ち上り、川から来る湿った風に押され、橋の方へ流れていった。
亀吉は、客と屋台の間を忙しく動いていた。
温めた丼を取ろうとして布巾を落とし、拾おうとしたところへ、船頭から葱が少ないと言われる。葱を足せば、今度は若い職人が箸を落とす。
体はひとつしかないのに、目と手だけを四方へ伸ばそうとしていた。
「亀。慌てると、湯まで慌てるぞ」
大工が丼越しに笑った。
亀吉は言い返そうとして、鍋の中から聞こえた音に気づいた。慌てて火を確かめ、言葉を飲み込む。
清兵衛は何も言わなかった。
亀吉が布巾を拾い、葱を足し、最後に箸を出すまでを、湯気の向こうから見ている。
そのとき、川上から一艘の舟が近づいてきた。
舟には灯がない。
黒い水の上を、さらに濃い影が滑ってくる。
艪の音も、ほとんど聞こえなかった。
水を大きく掻かず、流れを壊さぬほど浅く押している。舟は岸から少し離れたところを進み、五之橋の下へ入った。
橋桁の影が舟を呑み込む。
しばらくして反対側へ姿を現したが、屋台へ寄る気配はなかった。
そのまま清兵衛の前を通り過ぎていく。
舟に乗る男は笠を深くかぶっていた。
屋台の方を見ない。
清兵衛も顔を上げなかった。
笊(ざる)を持ち、茹で上がったそばの湯を切っている。
だが、艪を返す間の取り方には覚えがあった。
押したあと、ほんのわずかに水へ任せる。
舟を急がせず、流れの方から次のひと掻きを待つ。
弥八の艪だった。
清兵衛は丼へそばを移し、つゆを張った。
刻み葱を載せ、待っていた客の前へ出す。
その間にも、舟は五之橋から遠ざかっていった。
知らぬ者が見れば、ただ川を下っていく舟にしか見えない。
清兵衛は、屋台の端へ置いた手ぬぐいを一度だけ畳み直した。
それが弥八へ見せる合図だったわけではない。
そもそも、弥八はこちらを振り返っていない。
それでも、互いに気づいていることを、互いに知っていた。
舟は少し先の暗がりまで行った。
そこで艪の動きが止まる。
川の流れへ横腹を預けた舟が、ゆっくりと向きを変えた。船首が岸へ向き、今度は屋台の明かりが届かない方を選んで戻ってくる。
橋のたもとから少し下ったところに、古い石段がある。
昼間は船頭や荷運びの者が使うが、夜になると、上の道からはほとんど見えない。岸辺には葦が伸び、杭の陰には小舟一艘が隠れるほどの暗がりがあった。
弥八はそこへ舟を寄せた。
舟べりを石へ当てることなく、流れを利用して止める。
濡れた縄が、音を立てずに杭へ掛かった。
弥八は笠をかぶったまま舟を降りた。
石段には夜露が降り始めている。滑りやすい縁を避け、一段ずつ上がってくる。
すぐ屋台へは向かわない。
橋の下を一度見て、背後から来る者がいないことを確かめる。それから通りへ出て、帰り道にそば屋へ立ち寄っただけのような足取りで屋台へ近づいた。
提灯の明かりへ入っても、清兵衛へ声を掛けなかった。
空いた場所へ立ち、川を眺めている。
客の大工がそばをすすり、船頭がつゆを飲み干す。亀吉は落とした箸を拾い、新しいものへ替えていた。
弥八は、そうした屋台の時間へ自分を馴染ませるように、しばらく黙っていた。
やがて、客の話が途切れたところで、川へ向けたまま口を開いた。
「今夜は、水が静かでさ」
ただそれだけだった。
清兵衛は鍋の蓋を少しずらした。
火の赤さを確かめ、立ち上る湯気を見ている。
「静かな水ほど、底で何か動いてる」
弥八は笑わなかった。
清兵衛の返事を聞くと、川面から橋の方へゆっくり目を移した。
「そういう晩も、ありますな」
二人の言葉は、そこで終わった。
客の大工は聞こえなかったように丼を傾け、船頭は箸を置いた。亀吉だけが、弥八と清兵衛の顔を交互に見ている。
何かが始まったことはわかる。
だが、何が始まったのかまではわからない。
清兵衛は、亀吉の手元へ温めた丼を三つ寄せた。
葱の小鉢を右へ動かし、柄杓の向きを外側へ変える。銭箱の中をひと目見て、釣りに使う小銭を手前へ分けた。
亀吉の顔に不安が浮かんだ。
「旦那、どこかへ行くんですかい」
「半刻ほどだ」
「半刻って……あっしひとりで?」
亀吉は客の前にいることを思い出し、最後の言葉を小さくした。
清兵衛は鍋を見た。
「火を見てろ」
亀吉も鍋を見た。
清兵衛が言う火が、炭のことだけではないと、少しずつわかり始めていた。
火を強くしすぎれば、湯が騒ぐ。
弱ければ、客を待たせる。
屋台を空にして揉め事を見に行けば、商いそのものが消える。
亀吉は、さらに二つ三つ尋ねたいことがある顔をした。
だが、清兵衛はすでに手ぬぐいで手を拭い、着物の袖を直していた。
「火を落とすなよ」
「へい」
亀吉の返事は、いつもより少し低かった。
清兵衛は屋台を離れた。
橋の下へ続く石段を、一段ずつ下りていく。
弥八は先に舟へ乗り、縄を解いた。
清兵衛が舟べりへ足を掛けると、船体がわずかに沈む。川面に丸い波が広がり、屋台の灯をいくつにも割った。
舟が岸を離れる。
五之橋の明かりが、少しずつ遠ざかっていく。
清兵衛は振り返らなかった。
それでも、亀吉が鍋の前から舟を見ていることはわかっていた。
舟は竪川を下った。
夜の江戸は、道から見るのと川から見るのとでは顔が違う。
道には人の声があり、店の灯がある。犬が吠え、下駄が鳴り、夜回りの拍子木が家並みの間を渡っていく。
川の上では、それらの音が水を隔てて薄くなる。
代わりに、舟板を撫でる水の音、艪杭の軋み、岸辺の葦が触れ合う音が近くなった。
閉じた蔵の白壁が、月明かりの下へ並んでいる。
荷揚げ場には、使い終えた縄と空の荷車が残されていた。昼間は汗と掛け声に満ちていた場所が、夜には人の抜けた殻のように静まっている。
ところどころ、裏口だけに灯のついた家があった。
商いを終えたはずの時刻に、人が出入りしている。荷を持たずに入った男が、包みを抱えて戻る。
弥八も清兵衛も、そちらへ顔を向けなかった。
見ないことと、見えていないことは違う。
橋が近づくたび、弥八は艪を浅く使った。
舟が橋桁の影へ入る。
頭上を人が渡る足音が、木を通して低く響いた。月の光が遮られ、清兵衛の顔も弥八の背中も闇へ沈む。
橋を抜けると、また淡い光が戻った。
深川へ近づくにつれ、水の匂いに木場の匂いが混じってきた。
水を吸った材木。
古い縄。
炭の粉。
酒の染みた樽。
夜になっても、深川のどこかでは荷が動いている。見えないところで銭が数えられ、表からは開かない戸が、川側からだけ開く。
弥八は、細い入り堀へ舟を入れた。
両側の建物が水際まで迫り、空が狭くなる。月明かりは屋根へ遮られ、川面には小さな行灯の光だけが揺れていた。
やがて、料理屋の裏船着きが見えた。
表へ回れば、軒提灯を掲げた立派な店である。三味線が鳴り、女中が膳を運び、酒に酔った客の笑い声が通りまで聞こえる。
だが、裏口の戸は低く、灯も絞られていた。
板場には、足音を吸わせるための古い筵が敷かれている。
弥八が舟を寄せると、戸の内側から若い男が現れた。
名は尋ねない。
清兵衛も名乗らない。
男は足元を照らす行灯を持ち、細い廊下を先に立った。
料理屋の表の賑わいは、壁一枚向こうにある。
盃が触れ合う。
女の笑い声が上がる。
三味線が調子を変え、客が手を打つ。
それでも、清兵衛が歩く廊下には人の姿がなかった。
香の匂いが薄く漂い、磨かれた板に行灯の火が細長く映っている。
廊下の突き当たりで男が膝をつき、襖を開いた。
奥座敷には侍がひとり座っていた。
その傍らには、影のような男が二人控えている。
料理屋でありながら、膳も酒も用意されていない。
部屋の中央に置かれた火鉢だけが、白い灰の下で赤く息をしていた。
清兵衛は示された場所へ座った。
侍はすぐには話を始めなかった。
火鉢の炭が、かすかに鳴る。
清兵衛は、その赤い火を見ていた。
火というものは、ときに長い時を一息で連れ戻す。
本所の辰として歩いた夜。
喜助のそば屋。
三両の取り立て。
太吉の泣き声。
肩を走った刃。
玄庵の灯。
初めて清兵衛と呼ばれた奥座敷。
夜明け前に離れた江戸。
信州の山と、穀物問屋の蔵。
乾いたそばの実と豆の匂い。
十二年後、再び遠くに見えた江戸の空。
信州から戻ってからの十二年も、火の向こうへ重なった。
五之橋へ屋台を据えた夜。
初めて半椀を残した客。
町から拾った話をお上へ渡し、お上の話を町へ落とさずに収めた日々。
二十四年が、火鉢の煙の向こうを走馬灯のように流れた。
炭の端が小さく崩れた。
清兵衛は目を上げた。
信州の山も、若い辰の顔も消え、現在の奥座敷へ戻っていた。
侍は、清兵衛が過去から戻るのを待っていたようだった。
「町が荒れてきたな」
ようやく口を開いた。
声は静かだった。
だが、言葉の中には、本所、深川、亀戸、小名木川沿いで起きているいくつもの事柄が含まれていた。
働ける体を持ちながら、仕事にあぶれた人足。
賭場から抜けられない者。
店を畳んだ職人。
女房子どもを抱え、夜逃げを考える男。
捕らえるだけなら難しくはない。
賭場を潰し、地回りを引き、怪しい人足を番屋へ連れていく。
だが、ひとつの賭場を潰しても、食えない者が消えるわけではない。
別の場所へ集まり、別の悪党に拾われる。
「昔のお前のような者が、増えている」
侍は責めるために言ったのではなかった。
清兵衛も否定しなかった。
まだ人を脅していない辰。
まだ罠へ使われたことのない辰。
道を外れきる前なら、戻れる者もいる。
清兵衛は火鉢の灰を見ながら、そばの屋台について話した。
立派な店を持つ銭は要らない。
小さな屋台、鍋、火、丼、仕入れの銭。それに、人が通り、商いを許される場所があれば始められる。
もちろん、屋台だから楽に食えるわけではない。
夜通し屋台を引き、雨の日にも仕込みをする。粉とつゆの具合を見ながら、酔った客にも頭を下げる。火を扱い、銭を数え、通りの人間まで見なければならない。
だが、働く覚悟のある者へ渡せる道としては、大きな店より小さく始められる。
「そばなら、火と道具と場所があれば、食える者もおります」
清兵衛が口にしたのは、それだけだった。
侍は、話の先を理解した。
屋台へは人が集まる。
職人、船頭、女中、手代、人足。町のあちこちから来た者が、一杯のそばができるまで火の前へ立つ。
屋台が増えれば、食い扶持が生まれる。
同時に、町の異変を知る目と耳が増える。
侍が座敷の隅へ目を向けた。
控えていた男が、清兵衛の前へ小さな包みを置いた。
畳へ触れたとき、包みの中で銭が低く鳴った。
「種銭だ」
侍は短く言った。
清兵衛はすぐには手を伸ばさなかった。
若いころ、高すぎる手付けを受け取った夜を忘れてはいない。
銭は、それ自体では善くも悪くもない。
誰が、何のために渡すのかで、その重さが変わる。
今回の銭にも、役目があった。
誰へ屋台を持たせるか。
どこへ出すか。
商いが続かなかったとき、誰が責任を負うのか。
銭だけでなく、その判断まで清兵衛へ預けるということだった。
清兵衛は包みを取り、懐へ入れた。
「人は、こちらで決めます」
侍は、わずかに頷いた。
それ以上の言葉は必要なかった。
用向きが終わると、清兵衛は再び裏船着きへ降りた。
弥八は舟の中で待っていた。
夜はさらに深くなり、川面には薄い靄が出始めている。
帰りの舟では、二人ともほとんど口を利かなかった。
清兵衛は懐の銭包みへ触れず、暗い水の先を見ていた。
どこへ屋台を出すかより先に、誰へ火を預けるかを考えていた。
五之橋が近づくと、屋台の提灯が見えた。
火は消えていない。
清兵衛は石段を上がったが、すぐには屋台へ近づかなかった。
橋脚の影に立ち、亀吉の動きを見た。
屋台の前には職人が二人いる。
亀吉は丼と鍋の間を忙しく動いていた。火は少し強く、湯気も多い。それでも、つゆを焦がしてはいないらしい。
客へ釣り銭を渡すところで、亀吉の指が止まった。
勘定がわからなくなったのだろう。
以前なら、軽口を叩きながら適当に銭を出し、間違いに気づかぬふりをしたかもしれない。
今夜は客へ頭を下げ、銭を一枚ずつ並べ直している。
待たされた職人は面倒そうな顔をした。
それでも亀吉は急がなかった。
ようやく勘定が合うと、もう一度頭を下げた。
清兵衛は暗がりから、その一部始終を見ていた。
手際は悪い。
だが、間違いを誤魔化さなかった。
屋台を捨てて逃げることもしなかった。
清兵衛が明かりの中へ入ると、亀吉の顔に安堵が浮かんだ。
「旦那、ずいぶん遅かったじゃありませんか」
不満を言いたいのだろう。
だが、客の前なので声は抑えている。
清兵衛は答えず、鍋、銭箱、刻み葱の残り、洗って伏せた丼を順に見た。
火は落ちていない。
それで十分だった。
それから数日のあいだに、五之橋の屋台へ仕事の相談に来る者が現れた。
最初の男は、そばを打ったことがなかった。
屋台なら店賃が要らず、夜に少し働けば楽に稼げると思っている。清兵衛が仕込みの時刻を尋ねても、客が大勢来たときの儲け話ばかりをした。
次に来た男は、道具の値段だけを気にした。
鍋はいくらか。
屋台を売れば、どれほどになるか。
種銭は先にもらえるのか。
清兵衛は説教をしなかった。
それぞれへそばを一杯出し、食べ終えると帰した。
三人目は、長く仕事をしていない人足だった。
働く気はある。
だが、酒が切れると指先が震えた。本人は隠しているつもりでも、丼を持つ手を見ればわかる。
清兵衛は玄庵の弟子を訪ねるよう伝え、商いの話はしなかった。
相談者が帰るたび、亀吉は不思議そうな顔をした。
清兵衛が何を見ているのか。
誰なら屋台を任せてもらえるのか。
聞きたい様子だったが、口には出さなかった。
ある日の夕方、客足が途切れたころ、ひとりの男が屋台の前へ立った。
川には夕暮れの色が残り、橋の上を帰り支度の職人や商人が渡っている。遠くでは、夜の商いを始める呼び声が聞こえた。
男は年を重ねていた。
着物は古いが、襟元はきちんと整えられている。痩せてはいるものの、いま病んでいる者の痩せ方ではない。長く寝込んだあと、ようやく体を戻し始めたような細さだった。
男は屋台へ近づいても、すぐには声を掛けなかった。
提灯の下に立つ清兵衛の顔を、記憶の中にいる誰かと重ねようとしている。
清兵衛も男を見た。
頬は痩せ、目尻に皺が増えている。髪にも白いものが混じっていた。
見覚えがあるような気はする。
だが、すぐには名が出てこない。
男の指には細かな火傷の跡があった。右の親指だけが少し太い。長いあいだ、包丁と笊を使ってきたそば屋の手である。
男は意を決したように、清兵衛へ一歩近づいた。
「私のことを、覚えていらっしゃいますか」
清兵衛は答えなかった。
「うん?」
男の顔を、もう一度ゆっくり見る。
目元に何かが残っていた。
声にも、遠い記憶を動かすものがある。
清兵衛の頭に、本所の外れにあったそば屋が浮かんだ。
紺の暖簾。
釜から上がる湯気。
傷だらけの辰へ、何も聞かずそばを出した喜助。
その店の奥に、父親から仕事を言いつけられるたび、出前の丼を抱えて外へ出ていった若者がいた。
「あっしは幸吉です。喜助の倅の」
名を聞いた瞬間、年を取った顔の奥から、若い幸吉の面影が浮かび上がった。
「ああ」
清兵衛の声が、少しだけ柔らかくなった。
「覚えてるよ。喜助に叱られるたび、出前へ逃げていた小僧だな」
幸吉の顔に、ようやく笑みが浮かんだ。
「逃げたんじゃありません。出前を言いつけられていたんです」
「丼を持たずに出ていった日もあった」
幸吉は口を開きかけ、言い返す言葉を諦めたように頭を下げた。
短いやり取りのあと、二人の間へ沈黙が戻った。
だが、先ほどまでの、互いを探る沈黙ではなかった。
幸吉の顔の向こうに喜助の店があり、清兵衛の顔の向こうには、幸吉が知っていた本所の辰がいる。
その二つの時間が、屋台の灯の下で重なっていた。
喜助はすでに亡くなっていた。
幸吉は父親の店を継ぎ、同じ釜を使い、同じ暖簾を掛けて商いを続けた。
ところが数年前、病を得た。
初めは疲れだと思い、店を休まなかった。熱があっても釜の前へ立ち、咳が出れば客のいない奥へ顔を向けた。
休めば客が離れる。
暖簾を下ろせば、借りだけが残る。
その怖さが、体の具合より先に立った。
無理を重ねた末、幸吉は釜の前で倒れた。
それから長く寝込んだ。
店を閉めているあいだにも、家賃と借りは減らない。薬代を作るため、丼を売った。鍋を手放した。最後には暖簾も店も失った。
病は、時間をかけて癒えた。
いまなら、そばを打つことも、釜の前へ立つこともできる。
だが、商いを始める道具がない。
幸吉は、五之橋に清兵衛というそば屋がいると聞いた。
その男が、昔父の店へ通っていた本所の辰ではないかという話も耳にした。
「本当に、辰さんだったんですね」
幸吉は、確かめるように言った。
清兵衛はすぐには答えなかった。
辰と呼ばれていたころを否定するつもりはない。
だが、いまその名で振り返る男でもなかった。
「辰は、ずいぶん前に死んだよ」
幸吉は清兵衛の顔を見た。
冗談で言っているのではないことだけは、わかったらしい。
それ以上、昔の名について尋ねなかった。
清兵衛も、信州で過ごした十二年を説明しなかった。
人が別の人間になるまでの時間は、言葉だけで埋められるものではない。
清兵衛は幸吉へ、そばを一杯食べていくよう勧めた。
そのとき、屋台に客はいなかった。
亀吉には、船宿へ預けた丼を取りに行かせた。亀吉は幸吉と清兵衛の間にあるものを感じたらしく、何も尋ねず屋台を離れた。
五之橋を渡る人影が、夕暮れの中へ細く伸びている。
川から吹く風には、昼の温みと夜の冷たさが混じっていた。提灯が揺れるたび、幸吉の顔へ明かりと影が交互に落ちる。
清兵衛は、いつもよりわずかに早くそばを笊へ上げた。
湯を十分に切らず、そのまま丼へ移す。
つゆを張り、刻み葱を載せ、幸吉の前へ置いた。
幸吉は丼を両手で受け取った。
立ち上る湯気の匂いを確かめ、そばを少しだけすすった。
表情は変わらない。
もう一度箸を入れ、今度はつゆと一緒に口へ運ぶ。
湯切りが甘いことには、最初のひと口で気づいたはずだった。
それでも、すぐには何も言わなかった。
一杯を最後まで食べた。
清兵衛の顔を立てるための褒め言葉も、見え透いた世辞も口にしない。
丼を置いたあとも、橋を渡る人の足音が遠ざかるのを待っていた。
周りに誰もいなくなってから、幸吉は控えめに口を開いた。
「もう少しだけ湯を切った方が、そばの香りが生きると思います」
幸吉の言葉は、それだけだった。
自分の腕を見せつけようとはしない。
清兵衛の間違いを責めるわけでもなければ、客のように黙って世辞を言うわけでもない。悪いものを悪いと知りながら、相手の顔を潰さぬところで言葉にする。
喜助の店で幸吉が身につけたのは、そばを見る舌だけではなかった。
清兵衛は、わざと湯切りを甘くしたことを明かさなかった。
空になった丼を受け取り、布巾で縁をひと拭いする。
橋の上を、天秤棒を担いだ男が渡っていった。籠の中で何かが触れ合い、乾いた音を立てている。
川から来た風が屋台の暖簾を持ち上げ、鍋から立つ湯気を幸吉の方へ流した。
幸吉は、久しぶりに嗅ぐそば屋の匂いを、惜しむように吸い込んだ。
失った店にも、同じ匂いがあった。
朝、釜へ火を入れたときの湿った熱。削り節を入れたつゆの香り。暖簾を出したばかりの店へ、最初の客が入ってくる前の静けさ。
病に伏してから、何度も思い出した匂いだった。
清兵衛は丼を伏せ、それから幸吉を見た。
「亀戸で、屋台を引く気はあるか」
幸吉の指が、膝の上でわずかに動いた。
待っていたはずの話だった。
店を失ってから、もう一度そばを商いたいと何度考えたかわからない。朝、目を覚ますと、以前の店の釜がまだそこにあるような気がした。体を起こしてから、店も道具も失ったことを思い出す。
もう一度、火の前へ立ちたい。
もう一度、自分のそばを客へ出したい。
そう思って、五之橋まで来た。
それでも、「やります」とすぐには言えなかった。
幸吉は自分の両手を見た。
手の甲には、病で寝込む前より血管が濃く浮いている。指の節には昔の火傷が残っているが、長いあいだ笊を振らなかった腕からは、以前の太さが失われていた。
本当に一晩、釜の前へ立てるのか。
屋台を押し、仕込みをし、夜風の中で商いを続けられるのか。
病は治った。
医者も、日常の仕事へ戻ってよいと言った。
だが、以前と同じ体へ戻ったわけではない。熱を出す前にも、幸吉は自分の体を大丈夫だと思い込んでいた。その思い込みのために店を失った。
また同じことになれば、今度こそ何も残らない。
それに、清兵衛の話へ乗るということは、単に仕事を恵んでもらうことではない。
本所の辰だった男が、なぜ清兵衛と名を変え、五之橋で屋台を引いているのか。幸吉には、その間のことが何もわからない。
聞けば、戻れなくなるような話があるのかもしれない。
清兵衛は幸吉を急かさなかった。
返事が遅いことを、迷いとも臆病とも取らない。
鍋の火を見ながら待っている。
すぐに景気のよい返事をする男なら、むしろ任せる気を失っただろう。
仕事を失った者は、働けると聞けば何にでも飛びつきたくなる。だが、屋台は銭だけでなく、火と客を預かる商いである。
自分の体。
道具を譲る者の思い。
商う場所で暮らす者たち。
それらを考えたうえでなければ、長く続かない。
幸吉は顔を上げた。
「屋台を引いたことはありません」
声には、正直な不安があった。
「店の釜へ立つのと、屋台を押して歩くのとは違います。病み上がりのこの体で、どこまでできるかも、まだ……」
言葉が途切れた。
やりたくないのではない。
やりたいからこそ、軽々しく請け合えなかった。
清兵衛には、それがわかった。
「明日から引けとは言ってねえ」
清兵衛は鍋の蓋を少しずらし、火の赤さを確かめた。
「亀戸天神筋に、夜鳴きそばの屋台を引いていた伊助という男がいる。いまは病で、商いへ出られねえ」
幸吉は黙って続きを待った。
「屋台も道具も残ってる。商う場所も、まだ完全には失っちゃいねえ。ただし、伊助が手放すと決めたわけじゃない」
清兵衛は幸吉の目を見た。
「おめえが行って、話をするんだ」
「私が、ですか」
「病人の屋台を、おれが勝手に人へ渡すわけにはいかねえ。伊助が嫌だと言えば、話はそれまでだ」
幸吉は、亀戸で屋台を引くという話より先に、病に伏す伊助のことを考えた。
自分にも覚えがある。
布団の中で咳をしながら、店の道具がひとつずつ運び出される音を聞いた。鍋を買い取る者は、病人の枕元を見ようともしなかった。値を告げ、返事を待ち、道具だけを持っていった。
伊助も同じ場所にいるのかもしれない。
体が動かなくなっても、屋台を手放すことだけは決められずにいる。
そこへ見知らぬ男が現れ、自分に譲れと言う。
病人の足元を見て、商いを奪いに来たと思われても仕方がない。
「ただでもらう話じゃないんですね」
「当たり前だ」
清兵衛の返事は短かった。
最初に払えるだけを払い、商いが始まったあとは月ごとに返していく。額も返し方も、伊助と幸吉が互いに納得して決める。
清兵衛がするのは、二人を引き合わせるところまでだった。
幸吉の胸の中で、喜びと怖さが入れ替わった。
屋台を持てるかもしれない。
だが、まだ決まったわけではない。
伊助が断るかもしれない。話を聞いてもらえないかもしれない。自分の体が屋台を引けるほど戻っていないと、見抜かれるかもしれない。
それでも、この話を逃せば、次があるとは限らなかった。
幸吉は膝へ両手をついた。
「まず、お話だけでも聞いていただきます」
清兵衛は頷かなかった。
ただ、錦糸堀近くの長屋までのおおよその道筋と、伊助の名を伝えた。
幸吉はそれを何度も頭の中で繰り返した。
喜びのためではなく、道を間違えぬために、深く頭を下げた。
翌日の昼過ぎ、幸吉は伊助の長屋を訪ねるため、五之橋近くの住まいを出た。
朝から空は曇っていた。
雨が降るほど暗くはないが、日の光は雲の向こうへ隠れ、町全体が薄い灰色に見えた。川から吹く風は冷たく、道端の水溜まりへ細かな波を作っている。
清兵衛から聞いた道順は、細かなものではなかった。
錦糸堀の北へ回り、古手屋の角を曲がる。その先にある荒物屋の裏手の長屋。伊助という男は、一番奥にいる。
江戸の道は、言葉で聞くほど簡単ではない。
ひと筋向こうへ行くつもりでも、堀があれば橋まで回らなければならない。路地へ入れば、同じような板塀と長屋が続く。目印にしていた店が休んでいれば、どこで曲がるのかもわからなくなる。
幸吉は横川へ抜ける道を歩き、最初の橋を渡った。
橋の上では、青物を積んだ荷車が片側を塞いでいた。車輪がぬかるみへ入り、人足が二人がかりで押している。
幸吉は欄干へ身を寄せ、荷車を先へ通した。
橋の下を小舟が進み、積んだ薪から乾いた木の匂いが上がってくる。
向こう岸へ渡り、言われたとおり古手屋を探した。
だが、見つかった古手屋は二軒あった。
一軒目の角を曲がると、道は小さな寺の裏へ出た。荒物屋らしい店は見当たらない。
井戸端では、女が二人、洗い物をしていた。
桶の水へ手を入れ、濡れた布を板へ叩きつけている。風が冷たいというのに、二人の腕は肘までまくり上げられていた。
幸吉は井戸端から少し離れたところで足を止めた。
「ちょいと、お伺いしてもよろしゅうございますか」
女たちは手を止めず、顔だけを上げた。
「亀戸天神筋で夜鳴きそばをやっていた、伊助さんという方をご存じありませんか。病で休んでいると聞いたんですが」
一人の女は、濡れた手で頬へ張りついた髪を払った。
「伊助? そば屋の?」
「へい。その方です」
「この辺じゃないよ。もっと堀寄りじゃなかったかね」
隣の女は首を傾げた。
「それは伊七さんだろ。伊助さんは荒物屋の裏だって聞いたよ」
「荒物屋なら、今曲がってきたところにありましたが」
「そっちじゃないよ。あれは古金を扱う店さ。荒物屋は、もうひとつ先」
二人は別々の方角を指した。
幸吉は、どちらを信じればよいのかわからなかった。
礼を言って歩き出すと、背後で女たちが、伊助はまだ生きているのか、近ごろ屋台を見ないと思った、などと話し始めた。
幸吉は、もうひとつ先の路地へ向かった。
道端では、煮豆を売る婆が火鉢の炭を崩していた。鍋から甘辛い匂いが上がり、風に乗って流れてくる。
幸吉は、そこでも伊助の名を尋ねた。
婆は幸吉の顔を見てから、煮豆を買う客ではないとわかると、少し残念そうに口を曲げた。
「亀戸の伊助なら、病で寝てるよ。昔はうちの前も屋台を引いて通ったもんだ」
婆は火箸を持ったまま、細い道の先を示した。
「あの道を行って、油屋の角を右だ。けど、右へ曲がってすぐじゃないよ。溝板が三枚続いてるところを越して、その次の路地だ」
幸吉は同じ道順を二度聞いた。
婆は二度目になると面倒そうな顔をしたが、最後には火箸で地面へ道筋まで描いてくれた。
幸吉は礼を言い、教えられた方へ歩いた。
油屋の角では、空の樽がいくつも積まれていた。油の染みた土は黒く、近づくだけで鼻の奥へ重い匂いが残った。
右へ曲がり、溝板を数える。
一枚。
二枚。
三枚。
次の路地へ入ったが、また長屋が二つに分かれていた。
路地の入口では、裸足の子どもが独楽を回している。幸吉が伊助の名を尋ねると、子どもは独楽から目を離さず、奥だと答えた。
「どっちの奥だい」
幸吉が聞き返すと、子どもはようやく顔を上げた。
「咳をしてる方」
それだけ言い、また独楽を追いかけていった。
幸吉は、しばらくその場に立ち、耳を澄ませた。
右の長屋からは、魚を焼く匂いがした。左の奥から、途切れ途切れに深い咳が聞こえてくる。
幸吉は咳のする方へ進んだ。
長屋の間を抜ける溝には、洗い物の水が細く流れている。軒下では干した大根の葉が揺れ、板壁には古い雨染みが残っていた。
一番奥の家だけ、戸口に薬を煎じたあとの土瓶が置かれていた。
軒には洗った白い布が一枚干され、風が吹くたび、力なく揺れている。
清兵衛から聞いた場所と合っていた。
幸吉は乱れた襟元を直した。
途中で何度も道を尋ねたため、思ったより時間がかかっている。冷たい風の中を歩いてきたのに、背中には薄く汗をかいていた。
戸の前へ立ち、まず小さく声を掛けた。
「ごめんくださいまし」
返事はなかった。
部屋の奥で、誰かが咳をした。
一度では終わらない。
胸の深いところから絞り出すような咳が続き、途中で息を吸おうとして、また咳き込む。
その合間に、低い話し声が聞こえた。
一人ではない。
病人と、誰かが話しているらしい。
幸吉は、もう一度戸へ近づいた。
「ごめんくださいまし。どなたか、いらっしゃいませんか」
中の話し声が止まった。
しばらくして、掠れた声が返ってきた。
「どちらさんだい」
「手前、幸吉と申します。突然お邪魔いたしまして、まことに失礼をいたします」
「そんなところで言われても、聞こえねえよ」
声のあとに、また咳が続いた。
「戸は開いてる。お開けよ」
「へい。恐縮いたします」
幸吉は戸へ手を掛けた。
開ける前に、土のついた草履をもう一度揃える。
それから、なるべく音を立てぬよう戸を引いた。
室内には、煎じ薬の苦い匂いが満ちていた。
外の曇った光が細く差し込み、土間と畳の境を照らしている。火鉢には小さな炭が二つほど入れられ、その上で土瓶から白い湯気が上がっていた。
布団の上に、痩せた男が起き上がっていた。
五十を少し越えたほどだろうが、頬が落ち、髪には年齢以上の白さが混じっている。咳のあとらしく、胸元を押さえ、肩で息をしていた。
幸吉は、すぐにこの男が伊助だとわかった。
布団の上へ置かれた手は節が太く、指には細かな火傷の痕がいくつも残っている。
そばを茹で、熱い丼を持ち、長年屋台を押してきた者の手だった。
その枕元には、白髪の老人が座っていた。
背は曲がり、体はひと回り小さく見える。脇には杖が置かれ、若い男が薬箱を開いて薬包を整えていた。
幸吉は、老人が玄庵であることを、まだ知らなかった。
若い男が何者なのかもわからない。
ただ、老人の指が伊助の手首へ置かれているのを見て、医者とその手伝いだろうと見当をつけた。
老人の指は静かだった。
腕を持ち上げる前には、わずかに震えていた。だが、伊助の脈へ触れた途端、その震えが消えている。
幸吉は、敷居をまたいだところで深く頭を下げた。
「突然押しかけまして、申し訳ございません。伊助さんのお宅はこちらでよろしゅうございますか」
伊助は咳を堪えながら、幸吉の顔を見た。
「おれが伊助だ。お前さん、誰に聞いて来た」
声には警戒があった。
知らない男が病人の家を訪ねてくる。
穏やかな用向きとは限らない。
幸吉は、すぐ屋台の話を出さなかった。
喜助の倅であること。自分もそば屋を営んでいたこと。病に倒れ、店と道具を失ったこと。いまは体が戻ったものの、再び商いを始める場所がないこと。
順を追い、言葉を選びながら話した。
伊助は、途中で何度か咳をした。
それでも、幸吉の話を止めなかった。
痩せた顔には、まだ疑いが残っている。
病人の足元を見て、屋台や道具を安く買い叩こうとする者はいる。
屋台、鍋、丼、箸、提灯。
ひとつずつ売れば銭になる。弱った男なら、わずかな金でも手放すと考えて来たのかもしれない。
幸吉には、その疑いが痛いほどわかった。
自分も病で店を失った。
布団へ横たわったまま、丼が運び出される音を聞いた。鍋を買った男は、幸吉の顔より、鍋底の減り具合を長く見ていた。
売りたくて売ったのではない。
生きるために手放した。
目の前の伊助も、同じ場所にいる。
急かしてはならなかった。
幸吉は、清兵衛から聞いて来たと伝える前に、一度息を整えた。
「五之橋の清兵衛さんから、こちらのお話を伺いました」
伊助の目が、わずかに動いた。
「五之橋の旦那が、お前さんを寄越したのか」
清兵衛ではなく、五之橋の旦那。
呼び方が変わった。
幸吉は、その違いに気づいた。
枕元にいた老人も、清兵衛の名を聞いた。
伊助の脈から指を離し、ゆっくりと顔を上げる。
年老いた目が、幸吉へ向けられた。
幸吉は、その視線を受けて、背筋を伸ばした。
老人は何も尋ねなかった。
喜助の倅だということも、病で店を失ったことも、初めて聞く話である。
それでも、清兵衛がこの男をここへ寄越したという一点だけを受け取った。
老人は幸吉の顔をひと目見ると、再び伊助へ顔を戻した。
そして、ごくわずかに頷いた。
長い付き合いの伊助には、それだけで意味が伝わった。
五之橋の旦那が選んだ男なら、まず話を聞いてよい。
老人の目は、そう告げていた。
伊助は、先ほどまでより少し肩の力を抜いた。
「玄庵先生がそう言うなら、話くらいは聞こうじゃねえか」
その言葉で、幸吉は初めて、枕元の老人が玄庵だと知った。
本所から深川にかけ、銭のない者も追い返さぬ医者として知られている。幸吉も名だけは聞いたことがあった。
その玄庵が、清兵衛の名を聞いただけで顔を上げ、伊助へ無言の合図を送った。
幸吉の胸に、驚きがゆっくりと広がった。
父の店へ傷だらけの顔で現れ、強がりながらそばをすすっていた本所の辰。
その男が、なぜ玄庵や伊助から「五之橋の旦那」と呼ばれているのか。
本所の辰と五之橋の旦那との間には、幸吉の知らない二十四年があった。
幸吉は、その空白へ踏み込もうとはしなかった。
いま尋ねるべきことは、清兵衛の過去ではない。
伊助が守ってきた屋台のことだった。
幸吉は畳へ両手をつき、改めて頭を下げた。
「まずは、お話を聞かせてくださいまし。伊助さんが納得なさらなければ、こちらから無理を申し上げるつもりはございません」
伊助は、幸吉の下げた頭をしばらく見ていた。
戸口から入る冷たい風が、薬草の匂いを部屋の奥へ運んだ。
土瓶の蓋が、煮立つ湯気に押されて小さく鳴った。
それから伊助は、枕元の壁へ立てかけてある古い鍵へ目をやった。
屋台を仕舞っている物置の鍵だった。
話は、ようやくそこから始まった。
伊助は、屋台をただで譲る気はなかった。
幸吉も、ただでもらうつもりはない。
最初にいくら払えるのか。
残りをどのように返すのか。
屋台の道具を、どこまで引き継ぐのか。
伊助は咳の合間に、ひとつずつ確かめた。
幸吉は、自分の懐で用意できる銭を正直に話した。
最初に払える額は多くない。
商いが始まったあと、月ごとに残りを届ける。売れない月には無理をせず、売れた月には少し多く払う。
伊助は、すぐには納得しなかった。
病に伏していても、長年続けた商いの道具である。
値をつけるとなれば、鍋ひとつ、丼一枚にも思い出がついてくる。
伊助は物置の鍵へ何度も目をやった。
玄庵は、二人の話へ口を挟まなかった。
若い弟子が薬を紙へ分ける音だけが、部屋の隅で続いている。
伊助が無理な値を言えば、玄庵は目を上げたかもしれない。
幸吉が病人を欺こうとすれば、杖で畳を叩いたかもしれない。
だが、どちらも相手の弱みへ指を入れなかった。
しばらくして伊助は、道具の癖について話し始めた。
鍋の蓋は、少し左へ回さなければ、うまく閉まらない。
車輪の片方は、雨の日になると音が大きくなる。
つゆを入れる壺には小さなひびがあるが、内側までは通っていない。
提灯の骨は一本だけ新しく、ほかより色が薄い。
ひとつ話すたび、伊助の声には、自分の道具を手放す者の寂しさが滲んだ。
幸吉は、急かさず聞いた。
勝手に作り替えず、まず伊助が使っていた形のまま商いを始めると約束した。
つゆの合わせ方も、初めは伊助から教わる。
幸吉自身の味へ変えるのは、客の様子を見てからでよい。
その言葉を聞いて、伊助の顔から最後の硬さが少し消えた。
「売れなかったから、屋台を降りるんじゃねえ」
伊助は布団の上の拳を握った。
「体さえ動きゃ、まだ引ける」
幸吉は、その言葉を否定しなかった。
「承知しております」
余計な慰めも言わなかった。
自分も病で店を失った。
体さえ動けば、まだ暖簾を守れた。そう思いながら道具を手放した。
伊助の悔しさは、幸吉にもわかっていた。
話がまとまるころには、障子の外の光が傾いていた。
曇った日の短い明るさが消え、部屋の隅から夕闇が広がっている。
伊助は疲れたらしく、枕へ体を沈めた。
それでも、物置の鍵からは目を離さなかった。
玄庵の弟子が土瓶を火から下ろし、薬を椀へ移した。苦い匂いが、さらに濃く部屋へ満ちる。
玄庵は杖を取り、ゆっくりと立ち上がった。
幸吉の脇を通るとき、一度だけ足を止めた。
何も言わない。
ただ、幸吉の顔と手を見た。
それから、ほんのわずかに顎を引いた。
認めたのか、まだ見ているぞという意味なのか、幸吉にはわからなかった。
幸吉は玄庵へ深く頭を下げた。
次に伊助へ頭を下げ、長屋を出た。
外には、夕方の冷たい風が吹いていた。
来たときには迷った長屋の道が、帰りには少し短く感じられた。
それでも屋台が自分のものになったわけではない。
商う場所については、亀戸天神筋を取り仕切る親分へ筋を通さなければならなかった。
道具を引き取る銭も、これから用意する。
話が始まっただけである。
だが幸吉の胸には、久しく感じたことのない重さがあった。
不安だけではない。
もう一度、釜の前へ立てるかもしれないという重さだった。
数日後の朝、幸吉は再び伊助の長屋を訪ねた。
前の晩に降った雨は上がっていたが、道の土にはまだ水気が残っている。軒から落ちる雫が、ところどころで小さな水溜まりを叩いていた。
伊助は、すでに身支度を始めていた。
寝間着の上へ重ねた着物は、以前屋台へ出るときに着ていたものだという。袖口にはつゆの染みが残り、裾には何度洗っても落ちなかった泥の色がついている。
伊助はその着物を、弟子に手伝わせながら着ていた。
帯を締めるだけで息が上がる。
それでも、いつもの寝間着で親分の前へ出ることはできないと譲らなかった。
長屋の外には、幸吉が頼んでおいた駕籠が待っていた。
伊助は駕籠を見るなり、顔をしかめた。
「亀戸まで乗る気かい」
「歩かせるわけにはまいりません」
「駕籠代だけで、そばが何杯売れると思ってる」
病人の口から、商いの勘定が先に出る。
幸吉は困ったように駕籠舁きを見た。
二人の駕籠舁きは、客が乗るのか乗らないのか決まるまで、黙って棒の端を地面へつけている。
結局、伊助が折れた。
ただし、亀戸まで乗り通すことはしない。体が持つところまで駕籠を使い、残りは歩く。それが伊助の出した条件だった。
幸吉は反対したが、伊助は聞かなかった。
「これから商いを始めようって男が、初日から無駄な銭を使うんじゃねえ」
まだ屋台を譲ってもいないのに、すでに幸吉の勘定を気にしている。
伊助は弟子に支えられて駕籠へ乗った。
駕籠が持ち上がると、竹の骨が小さく軋んだ。
幸吉は駕籠の横を歩いた。
長屋を出て大きな道へ入ると、人通りが増えた。青物を積んだ荷車、天秤棒を担いだ魚売り、亀戸天神へ向かう参詣人が行き交っている。
駕籠の垂れは、完全には下ろされていなかった。
伊助は隙間から外を眺めていた。
長く寝込んでいるあいだに、町の姿が変わったように感じているらしい。新しい看板を見つけると目を細め、なくなった店の前では、何かを探すように顔を動かした。
橋を渡ったところで、乾物屋の女房が駕籠の中へ目を留めた。
「あれ、伊助さんじゃないかい」
伊助は垂れを少し持ち上げた。
「おや、おかみさん。まだ覚えてたのかい」
「忘れるもんかね。しばらく屋台を見ないから、どうしたのかと思ってたよ。体はもういいのかい」
「このとおり、駕籠へ押し込まれるくらいには悪い」
女房は笑いかけたが、伊助の痩せた顔を見ると、その笑みを少し引っ込めた。
「無理しちゃいけないよ。玄庵先生の言うことを聞くんだよ」
「若いころから、あの先生の言うことを聞いてりゃ、こんなことにはなってねえ」
伊助の返事に、女房は今度こそ笑った。
駕籠が再び動き出す。
少し先では、桶を担いだ水売りの男が伊助に気づいた。
「伊助さん、天神さんへ戻るのかい」
「まだ戻ると決まったわけじゃねえよ」
伊助はそう答えながらも、声にはわずかな張りが戻っていた。
知った顔から名を呼ばれるたび、長屋の布団へ伏していた病人ではなく、亀戸天神筋で屋台を引いていたころの伊助へ戻っていくようだった。
幸吉は駕籠の横を歩きながら、その様子を見ていた。
伊助の屋台は、ただ道具が揃っているだけではない。
この町で積み重ねた客の顔と声がある。
幸吉が引き継ぐのは、鍋や丼だけではなかった。
伊助が長い年月をかけて作った場所そのものを受け取るのだ。
亀戸天神へ近づくころ、伊助が駕籠を止めさせた。
まだ親分の家までは距離がある。
「ここから歩く」
「無理です」
「無理かどうかは、おれが決める」
伊助は駕籠の外へ足を出した。
地面へ降りただけで、膝がわずかに揺れた。幸吉が腕を支えると、伊助は振り払わなかった。
「親分の家へ、駕籠に揺られて横づけじゃ格好がつかねえ。それに、ここから先まで払ったら、銭がいくらあっても足りやしねえ」
伊助は駕籠舁きへ、ここまでの代金を払わせた。
幸吉の出した銭を、横から目で数えている。病に伏していても、銭勘定だけは衰えていなかった。
駕籠が去ると、二人はゆっくり歩き始めた。
伊助の歩幅は小さい。
十歩ほど進むと、息を整えるため立ち止まる。それでも、天神筋へ入ってからは顔を上げていた。
参詣帰りの女が伊助に気づき、足を止めた。
「まあ、伊助さん。生きてたのかい」
「勝手に殺すな」
「だって、あんたのそば、ちっとも見かけないじゃないか」
「いまにまた、食わせてやるよ」
言ってから、伊助は隣を歩く幸吉を見た。
自分が屋台へ戻るわけではない。
それでも、同じ火から作ったそばを、またこの通りへ出すことはできる。
女は幸吉を不思議そうに見たが、伊助はまだ説明しなかった。
別の店先からは、老いた職人が声を掛けた。
伊助は一人ずつ、短く返事をした。
病の具合を尋ねられれば、玄庵先生に生かされていると答えた。屋台へ戻るのかと聞かれれば、まだ話の途中だと濁した。
久しぶりの道は、伊助にとって懐かしいだけではなかった。
自分がいなくても町が動いていたことを見せつける道でもあった。
別の屋台が以前の場所へ少し近づいている。顔見知りの店には、知らない奉公人が立っている。いつもそばを食べに来た客の姿が見えない。
伊助は、そうした変化を黙って見ていた。
親分の家は、亀戸天神筋から一本入った通りにあった。
高い塀を巡らせた大きな屋敷ではない。
間口の広い町家で、表には太い格子が入り、軒下には手入れされた植木鉢が並んでいる。玄関脇には、来客の草履がいくつか揃えられていた。
幸吉は戸口の前で、着物の埃を払った。
伊助も息を整え、乱れた襟を直す。
幸吉が格子戸へ向かい、声を掛けた。
「ごめんくださいまし」
すぐには返事がなかった。
家の奥から、男たちの話し声が聞こえる。誰かが帳面を読み上げ、別の男が短く返しているようだった。
幸吉は、もう一度声を掛けた。
「ごめんくださいまし。亀戸の親分さんのお宅はこちらでございましょうか」
しばらくして、格子の向こうへ若い男が現れた。
肩幅が広く、商家の奉公人よりも立ち方が固い。幸吉と伊助を順に見てから、戸を少しだけ開いた。
「何の用だい」
「手前、幸吉と申します。こちらは、亀戸天神筋で夜鳴きそばを商っておりました伊助さんでございます。親分さんへ、商いの場所についてお願いがありまして」
若い男は伊助を見た。
顔を知っているらしく、目元の警戒が少し緩んだ。
「伊助さんか。ずいぶん久しぶりだな」
「長く寝ちまってね。親分さんはおいでかい」
「いるにはいるが、すぐ会えるかどうかはわからねえ。話を聞いてくる」
若い男は、二人を格子の内側にある待ち場所へ通した。
小さな土間の脇に腰掛けがある。
伊助はそこへ座り、胸を押さえて息を整えた。歩いているときには堪えていた咳が、二度ほど漏れた。
家の奥には、別の客がいるらしい。
低い声で交わされる話の中に、荷場や場所代という言葉が聞こえた。天神筋の商いを取り仕切る者のところには、屋台以外の揉め事も持ち込まれる。
幸吉は膝の上へ手を置き、待った。
玄庵の家を訪ねたときとは違う緊張があった。
伊助の屋台を譲り受ける話がまとまっても、場所を許されなければ商いはできない。
五之橋の清兵衛から話が届いているとは聞いている。
だが、それだけで自分が認められるとは限らなかった。
やがて奥の襖が開き、先客らしい二人の男が出てきた。
二人とも幸吉と伊助へ目を向けたが、声は掛けずに帰っていく。
入れ替わるように、先ほどの若い男が戻った。
「親分が会うそうだ。伊助さん、歩けるかい」
「ここまで歩いてきたんだ。あと十歩くらいは何とかなる」
伊助は幸吉の腕を借り、立ち上がった。
二人は奥の座敷へ通された。
亀戸の長五郎親分は、火鉢の前に座っていた。
五十を越えた、骨太の男だった。
派手な着物は着ていない。髷にも、指にも、目立つ飾りはなかった。だが、座敷へ入ってきた二人を迎える目には、長年、人と場所の揉め事を見てきた者の重さがあった。
長五郎は、まず伊助を見た。
「ずいぶん細くなったな」
「そばの代わりに薬ばかり食ってりゃ、こうもなります」
伊助は畳へ手をつき、深く頭を下げた。
幸吉も隣で頭を下げる。
長五郎は、すぐ本題へ入らなかった。
伊助の病の具合を尋ね、玄庵に診てもらっていることを確かめた。伊助が屋台を降りざるを得ないことも、すでに耳へ入っているらしい。
それから、幸吉へ目を移した。
顔だけではなく、畳へ置いた手、痩せた肩、座ったときの姿勢まで見ている。
「喜助の倅だそうだな」
幸吉は顔を上げた。
清兵衛から、そこまで話が届いているとは思っていなかった。
「へい。幸吉と申します」
「店を潰したと聞いた」
言葉は遠慮がなかった。
幸吉は一度息を呑んだが、目をそらさなかった。
「病で長く店を閉めまして、借りを返すために、道具も暖簾も手放しました」
「客が来なかったわけじゃねえのか」
「店を開けていたころは、どうにか食えておりました」
「博打か」
「いたしません」
「酒は」
「付き合いで口にする程度でございます」
長五郎は、幸吉の答えを聞くたび、すぐ次の問いを投げた。
責めるためではない。
言葉を用意する暇を与えず、顔へ出るものを見ている。
「病は治ったのか」
「日常の仕事へ戻ってよいとは言われました。ただ、以前とまったく同じ体とは思っておりません」
幸吉は、五之橋で清兵衛へ答えたことと同じように、できないことを隠さなかった。
「屋台を引いたことは」
「ございません」
「それで、なぜできると思う」
幸吉は、すぐには答えなかった。
屋台を引いた経験はない。
夜風の中で立ち続けたことも、酔客を相手にしたこともない。
できると断言するのは簡単だった。
だが、ここで景気のよいことを言えば、清兵衛がなぜ自分を選んだのか、その意味まで損なう気がした。
「できるとは、まだ申し上げられません」
幸吉は正直に答えた。
「伊助さんから道具の癖と、亀戸での商いを教えていただきます。まず一月、体と客の様子を見ながら、休まず続けられる形を作りたいと思っております」
長五郎は火鉢へ目を落とした。
灰の中へ差した火箸を動かし、炭の位置を少し変える。
「伊助。お前は、この男へ渡していいと思ってるのか」
伊助は咳をひとつ堪えた。
「まだ、全部を信用したわけじゃありません」
幸吉は隣で、その言葉を黙って受けた。
「けど、病人の道具をただで持っていこうとはしなかった。つゆも、初めはおれの味を使うと言ってる。五之橋の旦那が見込んだだけのことは、あるかもしれません」
長五郎の目が、わずかに動いた。
「五之橋の旦那、か」
その名を口にしただけで、座敷の空気が少し変わった。
清兵衛はここにいない。
それでも、長五郎のもとには、幸吉が訪ねてくるより先に話が届いていた。
喜助の倅であること。
病で店を失ったこと。
伊助の屋台をただで奪うのではなく、月々銭を返して引き継ぐこと。
そして、最終的に任せられるかどうかは、長五郎自身の目で見て決めてほしいということ。
清兵衛は許可を求めただけではない。
幸吉を無条件で通せとも言わなかった。
自分の見立てを伝えたうえで、亀戸の場所を預かる長五郎の判断へ委ねていた。
長五郎は、その筋の通し方を受け取っていた。
「五之橋の旦那からは、話が来てる」
長五郎は幸吉を見た。
「だが、旦那が何と言おうと、ここで商いをするのはお前だ。客へまずいそばを出すのも、場所を汚すのも、お前の名でやることになる」
「承知しております」
「伊助の客を、自分の客だと思うな。最初は預かってる客だと思え」
幸吉は、その言葉を胸へ入れた。
店を継ぐことと、客を奪うことは違う。
伊助が長く作ってきた場所へ、幸吉はあとから入る。最初から自分のものなど、何ひとつない。
「へい」
「場所代を遅らせるな。遅れるなら、遅れる前に話を持ってこい。黙って消えるのが一番いけねえ」
「必ず、お話に参ります」
長五郎は、そこで初めて伊助と幸吉の両方を見た。
「まず一月、やってみな」
幸吉の肩から、わずかに力が抜けた。
だが、まだ頭は下げなかった。
長五郎の言葉には続きがあった。
「ひと月続けられたら、その先を考える。体が持たねえなら、無理を隠すな。伊助も、情だけで庇うんじゃねえぞ」
「わかっております」
伊助が答えた。
長五郎は火箸を火鉢の縁へ置いた。
「五之橋の旦那が責任を持つなら、まず一月だ」
今度こそ、話は終わった。
幸吉は畳へ両手をつき、深く頭を下げた。
伊助も、その隣でゆっくりと頭を下げる。
長五郎の家を出たとき、外は夕方に近づいていた。
伊助は軒下で一度立ち止まり、呼吸を整えた。
帰りにも駕籠を使うつもりだったが、来る途中で銭を惜しんだ手前、伊助はしばらく歩くと言い張った。
幸吉は、その腕を支えながら天神筋へ出た。
参詣帰りの人々が二人の脇を通り過ぎていく。
顔見知りの店からは、伊助の姿を見つけた者が手を上げた。
伊助は、まだ屋台へ戻るとは言わなかった。
ただ、もうじきこの通りへ、そばの火が戻るかもしれないとだけ答えた。
幸吉は、その言葉を聞きながら歩いた。
清兵衛は、この場所にいない。
玄庵の長屋にも、長五郎の座敷にも姿を見せなかった。
それでも、清兵衛の名は幸吉より先に道を渡り、戸を開け、人に話を聞かせていた。
昔の辰は、自分の名を実際より大きく見せ、それで人を脅していた。
いまの清兵衛は、その場にいなくても、人を働かせる場所を作り、消えかけた火を別の手へ渡している。
若いころに欲しがっていたものを、清兵衛はまるで別の形で手に入れていた。
第八場 火の届く先
亀戸天神の空が白み始めるよりも早く、幸吉は屋台に火を入れた。
夜の名残は、まだ門前の軒下に溜まっていた。鳥居の輪郭も、参道に並ぶ家々の屋根も、薄い墨で引いたようにぼんやりと霞んでいる。北十間川の方から流れてくる風には、水と泥の匂いが混じり、夜露を吸った土は草履の裏へしっとりとついた。
昼になれば、参詣人の声や物売りの呼び声で賑わう天神筋も、いまは眠りから覚める途中だった。
遠くで戸板を外す音がした。箒で店先を掃く音が、ひとつ、またひとつと続く。鳥居の近くでは、餅屋の竈から上がった煙が、明けきらない空へ細く溶けていた。
その静かな町角に、古いそば屋台があった。
伊助が長く引いてきた屋台である。
洗い直され、傷んだ箇所には新しい木が当てられていたが、決して新しいものには見えなかった。柱には、雨に打たれて黒ずんだところがある。鍋の脇には火の粉で焼けた小さな跡が残り、引き出しの取っ手は、長年指に触れられて角が丸くなっていた。
その一つ一つに、伊助がこの土地で重ねてきた商いの歳月が染み込んでいた。
幸吉は、それを無理に消そうとはしなかった。
新しく削った板の白さも、古い木の黒ずみも、そのままにしてある。今日から自分が引く屋台ではあっても、今日まで誰のものでもなかった屋台ではない。
幸吉は火床へ細く割った薪を組み、その下へ火種を入れた。
最初は煙ばかりが立った。
湿り気を含んだ薪が、くすぶるような匂いを吐く。幸吉は顔を近づけ、息をゆっくり吹き込んだ。灰の奥に小さな赤みが生まれ、それが薪の端へ移ると、やがて控えめな音を立てて火が起きた。
鍋を据え、水を張る。
棚へ丼を並べ、箸を揃え、葱の入った小鉢を手前へ置く。つゆの入った壺は右。銭箱は左。手拭いは、濡れても火へ落ちぬところへ掛けた。
手順は、体が覚えていた。
それでも、指先はわずかに震えていた。
病に伏していた時間は短くなかった。店を失い、道具を手放し、そばを打つことさえなくなった。もう一度商いをしたいと願いながら、その願いが叶う日など来ないのではないかと、何度も思った。
いま目の前には、鍋がある。
火がある。
そばがある。
その事実が、かえって幸吉の胸を落ち着かなくさせていた。
失うものが何もなかったころより、取り戻しかけたものがある今の方が怖かった。
少し離れた軒下に、伊助が立っていた。
厚く着込んではいたが、朝の冷気は病み上がりの体に堪えるらしい。ときおり口元へ手拭いを当て、小さく咳をする。それでも帰ろうとはしなかった。
屋台の置き方も、鍋の火加減も、伊助は何も言わなかった。
道具を渡した者が、いつまでも後ろから口を出せば、受け取った者の商いにはならない。そのことを伊助は知っていた。
幸吉も、振り返って助けを求めなかった。
二人の間には言葉がなかったが、古い屋台を挟んで、それぞれが守るべき場所に立っていた。
湯が、鍋の底で低く鳴り始めた。
やがて参道の向こうから、足音が近づいてきた。
肩へ短い棹を担いだ船頭だった。朝一番の仕事へ向かう途中らしく、股引の裾には乾ききらない泥がついている。男は屋台の前を通り過ぎかけ、軒下の伊助に気づいて足を止めた。
「おや、伊助さんじゃねえか」
伊助は手拭いを懐へしまい、軽く顎を上げた。
「久しぶりだな」
「体はもういいのかい。しばらく見ねえから、天神筋のそばは畳んじまったものと思ってたよ」
船頭の顔には、懐かしさと心配が半分ずつ浮かんでいた。
それから、屋台の中に立つ幸吉を見る。
見慣れない男だった。
伊助が戻ったのなら一杯食べていこうと思ったらしいが、知らない男の作るそばとなれば、少し話が違う。船頭は屋台の前で足を止めたまま、伊助と幸吉を交互に見た。
伊助には、その迷いが分かった。
「今度から、こいつだ」
余計な説明はしなかった。
「幸吉っていう。腕は俺が口を挟むほどじゃねえ」
幸吉は手を止めず、船頭へ頭だけを下げた。
「よろしくお願いいたします」
船頭はまだ少し迷っていたが、朝の冷え込みに背中を押されたのか、屋台の前へ腰を落ち着けた。
「じゃあ、一つ頼むよ。朝っぱらから腹へ重くならねえようにな」
「へい」
幸吉は笊を取った。
その瞬間、指の震えが止まった。
そばを湯へ入れる。箸でほぐし、湯の動きを見る。鍋から上がる白い湯気が幸吉の顔を隠した。久しぶりの熱が頬へ当たり、そばの匂いが鼻を抜ける。
怖さが消えたわけではない。
ただ、仕事が始まれば、怖がっている暇はなかった。
湯の中でそばがどう動くか。上がってくる泡がどのくらい細かくなったか。冷えた朝の丼を、どれだけ温めておくべきか。つゆを張ったあと、客の手へ渡るまでにどれほど熱が逃げるか。
幸吉の目は、それだけを追っていた。
伊助は黙って見ている。
笊を上げる時刻も、湯を切る手首の返しも、口を出すところはなかった。
幸吉は大きく笊を振らなかった。必要なだけ湯を切り、温めておいた丼へそばを移した。つゆを張り、葱を載せる。
「お待たせいたしました」
船頭は丼を受け取った。
まず、立ち上る湯気の匂いを嗅いだ。つゆの色を見て、箸でそばを少し持ち上げる。その仕草には、見知らぬ男の腕前を測ろうとする遠慮のない目があった。
一口、啜る。
船頭の眉が、わずかに上がった。
もう一度、今度は最初より少し多くそばを取る。口へ運び、つゆを一口飲んだ。
「うん?」
その声は誰に聞かせるものでもなく、男の喉から自然に漏れた。
幸吉は何も尋ねなかった。
うまいか、まずいかと客の顔を覗き込むようでは、商いはできない。幸吉は使った笊を洗い、次の客がいつ来てもよいように丼の位置を直した。
船頭は黙って食べ続けた。
伊助も黙っている。
鳥居の向こうでは空が明るくなり始め、家々の屋根に薄い朝の色が差していた。門前の店が一軒、また一軒と戸を開ける。町を掃く箒の音に、荷車の軋みと人の声が混じり始めた。
船頭は最後につゆを飲み、丼を置いた。
「伊助さん」
「なんだ」
「いい男へ渡したな」
伊助は答えず、鼻の下を指で擦った。
船頭は銭を取り出した。勘定の分を屋台へ置き、立ち上がる。
それから幸吉の方を見た。
「明日も、この時分には出てるのかい」
「そのつもりでおります」
「そうか」
男は銭を指先で静かに押し出した。
「うまかったよ」
それだけ言って、天神筋を川の方へ歩いていった。
幸吉は、すぐには銭を取らなかった。
屋台の板に載った小さな銭を見ていた。
店を畳んで以来、初めて自分のそばで受け取った銭だった。金額はわずかである。それでも、その一枚には、清兵衛から預かった種銭よりも重いものがあった。
幸吉はようやく銭を取り、両手で包むようにしてから、銭箱へ入れた。
乾いた音が、一つした。
伊助はその音を聞き届けると、屋台へ背を向けた。
「俺は帰るぞ」
幸吉が顔を上げた。
「伊助さん」
「客が来る。こっちを見るな」
伊助の言うとおり、参道の向こうから二人目の客が歩いてきていた。
幸吉は深く頭を下げる代わりに、笊を手に取った。
屋台の火は、もう幸吉の火になり始めていた。
*
その夜、五之橋の川面には、町の灯が細長く揺れていた。
昼の温みを失った風が竪川を渡り、橋際の屋台の暖簾をときおり膨らませる。鍋から立つ湯気は風に押され、清兵衛の肩を撫でてから夜の中へ消えていった。
橋の上を、仕事を終えた職人たちが渡っていく。下駄の音が途切れたかと思えば、今度は荷車の車輪が橋板を鳴らす。川岸の船宿からは縄を巻く音が聞こえ、深川の方から流れてくる風には、湿った材木と炭の匂いが混じっていた。
五之橋の屋台には、いつもの夜が戻っていた。
亀吉は丼を湯へ入れたまま、橋を渡ってきた女へ気を取られていた。清兵衛が何も言わずに鍋の縁を箸で一度叩くと、慌てて丼を引き上げる。
「見てましたよ」
「見てるやつは、忘れねえ」
「忘れたわけじゃありません。ちょいと向こうを見てただけで」
「それを忘れたっていうんだ」
客が声を殺して笑った。
亀吉は口を尖らせたが、言い返さずに丼を拭いた。以前なら一つ二つ軽口を重ねたところだが、最近は清兵衛の言葉が落ちた場所を、少しだけ見るようになっていた。
夜も半ばを過ぎたころ、亀戸帰りの植木職人が屋台へ寄った。
肩から下げた風呂敷には、仕事道具の形が浮いている。男はそばを啜りながら、思い出したように言った。
「そういや旦那、天神筋にそば屋が戻ってましたぜ」
清兵衛は鍋の火を見ていた。
「朝方、門前で食いました。前に引いてた伊助さんじゃなかったが、なかなかのもんで」
亀吉が顔を上げた。
「新しいそば屋ですかい」
「ああ。幸吉とかいったかな。伊助さんもそばにいたよ」
清兵衛の手が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに鍋の灰汁を掬い、椀の端で静かに切る。その顔には喜びも安堵も浮かばなかった。
だが、灰汁を捨てたあと、清兵衛は薪を一本、火床へ足した。
若いころの辰は、自分の名を実際より大きく見せようとした。
本所の辰だと名乗れば、人が道を空けると思っていた。声を荒らげ、拳を振るい、恐れられることを力だと信じていた。
あのころの名は、辰がその場を離れれば、すぐに薄れた。
いまの清兵衛は亀戸にいない。
それでも五之橋の旦那という名が先に渡り、伊助の屋台を幸吉へつなぎ、長五郎に話を聞かせ、今朝、天神筋に一つの火をともした。
清兵衛自身は、そのことを口にしなかった。
口に出せば、火は自分の手柄になってしまう。
亀戸で火を守るのは幸吉であり、その屋台を長く引いてきたのは伊助だった。
植木職人が帰ったあと、亀吉は薪を揃えながら尋ねた。
「旦那、あの幸吉って人、旦那が世話したんですかい」
清兵衛は返事をしなかった。
「いや、別に聞いちゃいけねえなら、いいんですけど」
亀吉は自分で話を引っ込めた。
橋の上を冷たい風が抜け、屋台の提灯が小さく揺れた。
清兵衛は火床へ目を落としたまま言った。
「火を焚くだけなら、誰にでもできる」
亀吉は、その先を待った。
しかし清兵衛は何も続けなかった。
屋台を置く場所がいる。道具がいる。銭がいる。客がいる。土地の筋を通し、前に商いをしていた者の顔を潰さず、周囲の店とも折り合わなければならない。
そして何より、その火を毎日消さずに守る者がいる。
清兵衛は、それを亀吉へ一つずつ教えようとはしなかった。今の亀吉には、まだ分からないこともある。分からないまま火の前へ立ち、失敗しながら覚えればよいこともある。
夜がさらに深くなると、客足が途切れた。
橋を渡る者も少なくなり、川の音が近くなる。昼間は荷舟の声や櫂の音に隠れている水の流れが、橋脚の下で低く息をしていた。
そのころ、錦糸堀の方から男が一人やってきた。
年のころは四十を少し越えている。古びた半纏を着て、泥の乾いた草履を履いていた。男は屋台へ腰を下ろす前に一度、橋の後ろを振り返った。
「そばを一つ」
亀吉が丼を用意し、清兵衛がそばを湯へ入れた。
男は出されたそばを黙って食べた。
腹を空かせているようには見えたが、箸の進みは遅かった。ときおり顔を上げ、橋の上と川岸へ目を配る。誰かを待っているのか、それとも誰かにつけられていないか確かめているのか、亀吉には分からなかった。
清兵衛は何も尋ねない。
男が丼を空にし、銭を置いた。
立ち去りかけてから、屋台の柱へ手を添えたまま、低い声で言った。
「旦那。錦糸堀でいなくなった男、まだ戻らねえそうです」
清兵衛は使った丼を湯へ沈めていた。
「そうか」
「あっしも、酒でも飲んで転がってるんだと思ってたんですがね」
男はもう一度、橋の方を見た。
「ただの釣り好きじゃなかったらしい。小名木川の方で、舟荷の札を扱う仕事をしてたとか」
丼の縁から、小さな泡が一つ上がった。
清兵衛はそれを見ていた。
「誰から聞いた」
「錦糸堀の船溜まりで。もっとも、あそこじゃ皆、口を閉じ始めてます。おいてけ堀に取られたんだって言うやつもいますが……」
男は言葉を切った。
怪談を信じている顔ではなかった。
信じてはいない。それでも、怪談ではない何かを恐れている。清兵衛には、その違いが分かった。
川下から、微かな水音がした。
清兵衛が目を上げる。
橋の下へ、一艘の舟が近づいていた。
灯を掲げていない。
舟の輪郭は川面の闇へ溶け、舳先が水を分けるところだけが、鈍い銀色に光っている。艪を使う音もほとんどしなかった。水を知り尽くした者が、音を立てぬよう力を加減している。
弥八の舟ではない。
弥八ならば、暗がりを進む時にも舟を隠そうとはしない。必要な音を消し、橋の影へ身を寄せるような通り方もしなかった。
舟は屋台の後ろを過ぎた。
屋台の提灯が一度だけ舳先を照らしたが、乗っている者の顔までは見えなかった。二人、あるいは三人。舟底に何かを伏せているようにも見えた。
橋をくぐる直前、黒い影の一つがこちらを向いた。
顔は見えない。
それでも、見られたという感覚だけが、冷たい川風とともに残った。
舟は橋の下へ入った。
橋桁の闇が船体を飲み込み、水音まで遠ざかっていく。しばらくすると、初めから何も通らなかったように、川面には町の灯だけが揺れていた。
錦糸堀から来た男は、いつの間にか口を閉じていた。
「じゃあ、旦那」
それだけ言うと、男は足早に去った。
清兵衛は追わなかった。
何者だったのか。舟底に何を積んでいたのか。消えた男と舟荷の札に、どのようなつながりがあるのか。
まだ何一つ分からない。
分からないうちに動けば、見えるものまで見えなくなる。
清兵衛は橋の下へ続く暗がりを見つめた。
亀戸では、幸吉が新しい火を守っている。
五之橋では、亀吉がその火の扱いを覚え始めている。
火が一つ増えれば、そこへ人が集まる。腹を空かせた者が立ち寄り、冷えた者が足を止め、誰にも言うつもりのなかった話を、丼の湯気に紛れて落としていく。
今夜、清兵衛のところへ流れ着いた話も、まだ小さな欠片にすぎなかった。
だが、江戸の町のどこかで、目に見えない流れが動き始めていた。
本所の堀から小名木川へ。
小名木川から深川へ。
深川から亀戸へ。
表の道ではなく、夜の水路を伝う流れだった。
亀吉は、舟に気づいていなかった。
火床を覗き込み、炭の具合を確かめている。客も途切れたため、そろそろ火を弱めてよいと思ったのだろう。
「旦那、火、少し落としますか」
清兵衛は、暗い川面を見たまま答えた。
「落とすな」
亀吉は理由を聞かなかった。
「へい」
火箸で炭を寄せると、灰の下から赤い火が現れた。
その光が清兵衛の横顔を下から照らし、すぐに白い湯気に隠れた。
五之橋の夜は、まだ終わらない。
橋の下を通り過ぎた闇だけが、次の堀へ向かっていた。